唯川恵「みちづれの猫」

 

みちづれの猫

みちづれの猫

  • 作者:唯川 恵
  • 発売日: 2019/11/05
  • メディア: 単行本
 

太古の昔より続く、犬派vs.猫派の争い。(私はタケノコ派)

様々な主張があるけれど、ことインターネットの世界では猫派圧勝である。

 

2007〜8年ごろ出席したインターネット学会で、すでに「猫とインターネット」という分科会(パネル?)があった。まだmemeという言葉が市民権を得ていないころだが、すでにキラーコンテンツとして猫の写真がネットに溢れている!猫すごい!みたいな発表を、当時デジタル・コミュニケーションの重鎮だとか草分けと呼ばれていた先生方が至極真面目に議論してたのを覚えている。

ドッグパークや散歩道で飼い主同士のコミュニティを作りやすい犬飼いと違い、散歩が日課に入ってこない猫飼いは写真を交換するくらいしか猫自慢する場がないわけで、デジタル写真を交換できるインターネットの誕生は猫派にとってコミュニティづくりに最適だったのだろう。

確か、2010年ごろにどこかのdata scientistが調べた結果だと猫をテーマにしたコンテンツ(オリジナルの写真、動画、memeなど)が13億あったとかなかったとか(めっちゃあやふや笑)World Wide Webの生みの親であるTim Barners-Lee博士も「猫がこんなに流行るとは予想できなかったわ〜。」って言ってるし。

 

猫好きたちの横のつながりができたからかどうか、猫飼いをテーマにした漫画や小説が増えてきた気がする。

そこで表題作。猫のいる日常を描いた7本の短編集で、猫好き垂涎の一品に仕上がっている。猫が直接出てこない作品もあるけど、私は一匹の猫がいろんな人のところに行く「運河沿いの使わしめ」と、たくさんの猫が一人の人生を彩る「約束の橋」が良かった。

 

「運河沿いの使わしめ」は離婚のダメージで生活がボロボロになってしまった女性が、ふらっと迷い込んできた猫のおかげで立ち直る話なんだけど、猫とのエピソードより、汚部屋のでき方の描写がすごい。

主人公がある日食べ終わったコンビニ弁当の殻を、ぽんっと机の上に置く。次の日はその上に、机の上がいっぱいになったら机の下に。

その頃にはもうゴミという感覚はなくなっていた。それらはまるでテレビのリモコンと同じように、部屋の備品のひとつになっていた。やがて、それ自体が細胞分裂してゆくかのように、ゴミは部屋を占領して行った。

心の隙間にゴミが埋まっていく感じ、すごいリアル。捨てられないんじゃなくて、目に入らないんだろうな。

 

対照的に「約束の橋」は終活中の老女がみちづれの猫たちを思い出す話で、猫愛ここに極まれり!という台詞が目白押し。

二匹が逝ってから、すぐに次の猫を飼うことにした。それで喪失感が消えるわけではないが、猫の不在を埋めるのは、やはり猫しかなかった。

猫を飼ったことがないのでわからないのだが、別の猫で猫の喪失って埋められるの?恋人に依存する気持ちに似てるの?

猫好きは、すべての猫を好きになる。美しかろうが薄汚れていようが、雑種であろうが血統書付きであろうが、他人の猫であろうが、決して懐いてくれない猫であろうが、関係ない。すべてが愛おしく、すべてに心踊る。もう、猫のいない人生なんて考えられない。 

猫好きが宗教じみてくるのは理解できた。ちょっと偏愛すぎる嫌いはあるけど、神がモフモフの尻尾を持ってるのは悪くない。猫好きへのプレゼントにぜひ。

 

同時期に姫野カオルコさんの「昭和の犬」も読んだんだけど、「みちづれの猫」の方が面白かった。たぶん「昭和の犬」の主人公がそこまで露骨に犬愛を謳っていないからかも。

昭和の犬 (幻冬舎文庫)

昭和の犬 (幻冬舎文庫)

 

 

吉野源三郎・羽賀翔一「君たちはどう生きるか」

 

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

コロナ禍が2年目を迎え、世界各国で人々が第3波、4波と日々相対する中、「終わりなき日常」と宮台真司氏が評したポスト・モダン社会は新たな局面を迎えている。

社会・政治機構、個人のアイデンティティといった、とっくに自明性を喪失していた事柄に加え、リモートワークやオンライン教育導入による「職場」「学校」といった共同体のヴァーチャル化(すなわち虚構化)、さらに私たち一人一人がウィルス感染を媒介するメディアであるというこれまでの健康概念を根底から揺るがす言説の進展によって、日常を構築していた自明性が瞬く間に失われつつある。

人=ウィルス媒介袋という認識を持って今後の時代を生きる「君たち」(若者)に、「どう生きるか」と問える「大人」はいるだろうか?

 

本作は1937年日中戦争前夜に出版された吉野源三郎の原作を、出版80周年を記念してコミカライズしたもので、漫画版と原作の新装版と合わせて1−2年で200万部売り上げたそうな。

児童向け哲学書の金字塔!と謳われる一方で、日本の未来を導くエリート少国民に向け書かれた優生・選民思想の滲み出る問題作としての批判も寄せられている。

確かに好みが分かれる本だろう。

物語を通じて主人公コペルくん(15歳)を導く元編集者の叔父さんが、(恐らく吉野源三郎が自分はこうありたいという願望を込めて)理想のメンターとして描かれているところは、あざといけど好きだ。子供を一人の人間として扱う親とは別の「大人」、しかも社会のことわりをちょっとはみ出していて(叔父さんは失業中)「話のわかる」大人を子供向けの作品に登場させる手法はよくあるけれど、コペルくんが考えたことに対する自分の考えを逐一ノートに書き留め、コペルくんのピンチに手渡してくれるほどコミットしてくれる「大人」はそういない。

日本が泥沼の戦争に足を踏み入れた当時の世相を考えれば、叔父さんのように表立って子供が自分で考える力を大事にする「大人」は稀有だったろう。また、子供の発見に素直に感激できる心の柔軟さを持った「大人」も。叔父さんの思想は偏っているけれど、キャラクター自体は(フィクションとして)いい。

コペルくんがニュートンのリンゴの話から「人間分子の関係、網目の法則」を発見するくだりもいい。粉ミルクの缶が膨大な社会経済の網目の中で生み出され、物流の網を通ってコペル家の戸棚に収まりまでの過程を、コペルくんが直感的に発見し、言語化する思考過程はワクワクする。計り知れない世界の広さと、その中での自分の立ち位置に想いを馳せるあの宇宙空間に自分が投げ出されたような感覚。高校生くらいの時に同じような思考実験をしたことがあったのを懐かしく思い出した。

一方で、貧困問題や階級思想の描き方は古臭さくて鼻につくし、死んだ父親が残した「立派な人間」になれというメッセージも偏っていて、重い。コペルくんの同級生が体験したいじめの顛末(親が介入する)が漫画版では完全に省略されていることもあって、消化不良な部分もある。第一、今の若い読者はコペルくんに感情移入できるのだろうか?

 

道徳の教科書だ哲学書だとありがたがらず、大人が子供時代を懐かしく思い、あの頃あんな大人がいてくれたらな、と願望を込めて書かれた大人の童話としてふんわり消費したらいいと思う。

 

矢部太郎「大家さんと僕」

 

大家さんと僕

大家さんと僕

  • 作者:矢部太郎
  • 発売日: 2017/11/10
  • メディア: Kindle版
 

8年ぶりに雑読にきにコメントをいただいた。
8年って、長い。
2013年に開催が決まった東京五輪、「お・も・て・な・し」とか言ってたのにまさかのパンデミックで延期なんて誰が想像したでしょう。
まだブログが生きていることに驚愕しつつ、せっかくなので再開します。

「大家さんと僕」は、お笑い芸人の「僕」が80代の「大家さん」と同居した3年ほどを描いた4コマ漫画。「ごきげんよう」と挨拶し、新宿伊勢丹までタクシーで買い物に行かれる上品な「大家さん」と、売れない芸人の「僕」が淡々と暖かく日々をすごす、日常系漫画である。

「大家さん」がとにかく愛らしい。小さい頃に縁日で食べられなかったわたあめを思い出しては「恨めしのわたあめ!」と凄んでみたり、出版された漫画を読んで、「私小さくて垂れてる目がチャームポイントなの!」とダメ出しなさったり。「僕」と外食するときは器を愛で、固いものはmyハサミで小さく刻んでゆっくりと味わい、ほうじ茶を楽しまれる。

初恋の男性と健康ダンスの会で偶然再開し、玉川上水を見つめながら

87歳の夏は今しかないのですものね。

と乙女ゴコロも健在で。人生100年時代を優雅に軽やかに生きていらっしゃる「大家さん」を眩しく可愛く思う「僕」(アラフォー)の気持ちがよく伝わってくる。

「大家さんと僕」を読むと、シニアと若い世代の多世代同居に必要なのは、頼り頼られる相互依存の関係なのだろうなと思う。他人よりはだいぶ近い、でも肉親よりは遠慮がある微妙な距離感。何よりお互いを好ましく思う気持ちが必要で。フランスの「ひとつ屋根・ふたつ世代」政策に代表される多世代同居が各国で少しずつ広がっているけど、「大家さんと僕」のような成功例はどのくらいあるのだろう。うまくいったケースの最大公約数を調べたら面白そう。

…とここまで書くのに2時間。ブログを書き続けるのってマラソンに似てて、筋力が落ちると全然かけなくなる。衰えたブログ筋のリハビリを兼ねて、この夏は本を読もう。

 

Andy Riley「The Book of Bunny Suicides」

The Book of Bunny Suicides: Little Fluffy Rabbits Who Just Don't Want to Live Anymore (Books of the Bunny Suicides Series)

The Book of Bunny Suicides: Little Fluffy Rabbits Who Just Don't Want to Live Anymore (Books of the Bunny Suicides Series)

邦題「自殺うさぎの本」
10年くらい前に話題になって以来、気になっていた絵本である。
絵本というよりイラスト集かな?文章は一切なく、シンプルなタッチで描かれたうさぎ達がひたすら自殺方法を模索するイラストが延々と続くシュールな本で、ネットで検索すればいくつか見られる。


イギリス人特有のブラックジョークだろうか、自殺というテーマを扱っていながら笑える。
死に急いでいる割にこのうさぎ達、非常にクリエィティブだからだ。
ただ首を吊ったり毒を飲んだり、あるいは殺しあったりというような殺伐とした自殺方法ではなく、ありとあらゆる方法を模索している。


飛行機のプロペラに飛び込んでばらばらになってみたり、電線で感電してみたり、ギロチン台に整列してみたり。
かと思えばノアの箱船に乗らないだとか、砂漠でオアシスと逆方向に旅をするだとか、あるいは道を挟んで向かい合う刃物屋さんと磁石屋さん(?)の間に立って刃物が飛んでくるのを待つ、なんていう割と受け身な自殺方法もある。

秀逸なのはスタートレックの転送装置を使った自殺。
床に円がいくつか描いてあり、その円の中心に立つと転送ビームが出てきて物質が分解され、転送先で再構築される。
きちんと転送ビームを浴びることで再構築が可能になるんだが、そこで自殺うさぎは考えた。
円に半分だけ身体をいれて転送装置を動かせば…そう、身体がまっぷたつ!
残った半身がまたいい味だしてるんだ。


この愉快なうさぎ達、寺山修司の「青少年のための自殺学入門」を思い出させる。
寺山修司は自殺を特権的なものだとする。
自殺とは「死に向かって自由になる」主体的かつ象徴的な行為に他ならず、「生の苦しみから自由になる」敗北の死とは厳然と区別されるべきである。
その上で遺書の書き方や場所の選び方などをユーモラスに紹介するのだが、その中に自分が考案した自殺機械の短い描写がある。
例えば風呂に入ってお気に入りのレコードを聴きながら感電死する浴槽自殺機や、ニワトリに銃の引き金を引かせるニワトリ自殺機。
自殺うさぎ達の美学に相通じるものがある。
太宰治が「斜陽」で確立した「人間には死ぬ自由がある」という哲学を体現しているといえよう。


鶴見済の「完全自殺マニュアル」を想起する方もいるだろうが、あれはいわば「死に方を知っておくことがお守りになる」というパラドックスだったから、自殺うさぎや寺山の自殺機械とは根本的に違う。
自殺はいいことでも悪いことでもないけれど、「逃げるため」の自殺は笑えない。


ちなみに自殺うさぎ、先日古着屋の児童書棚に無造作に置いてあったので即座に購入した。
お値段わずか10セント!っていうかこれ児童書扱いしていいのかしらん?

司馬遼太郎「項羽と劉邦」

項羽と劉邦(上) (新潮文庫)

項羽と劉邦(上) (新潮文庫)

久しぶりに司馬遼太郎を読んでみた。
トロントの公共図書館にも何冊かあるようなのだが、古い本のせいか閲覧のみで貸し出しできない本が多い。
唯一借りられたのがこの「項羽と劉邦」で、実家に文庫本があったことを思い出しつつ懐かしく読んだ。
「龍馬がゆく」「燃えよ剣」「坂の上の雲」、それに「峠」あたりが好きだったなぁ…また読みたし。


司馬さんの小説は時代小説というより「司馬小説」という1つのジャンルだなと改めて思う。
司馬遷の影響をうけた「列伝」形式を取り、数多くの登場人物達を広く浅く網羅することによって物語を紡ぐ。
史実の合間にゴシップ的な小話がちょこちょこ挿話され、たまーに登場人物の内面がつぶやきの形で表現されるものの、登場人物が勝手に動き出す感はない。
人物描写が浅いと断じる向きもあるだろう。
「余談だが…」と挿入される随筆めいたエピソードが物語の流れを断ち切っていると批判する人もいるだろう。
けれど、その客観的でドライな語り口は、良質のドキュメンタリーフィルムを思わせる魅力を備えている。
Discovery channelでも見てる感じで読んだらいいんじゃないかな。


さて、「項羽と劉邦」である。
紀元前3世紀の中国で派遣を争った2人の英雄。
劉邦が項羽を破り漢の高祖となるまでを描く。


楚の貴族出身の項羽は身の丈八尺(184cm)の美丈夫で、名馬にまたがり戦場を駆け抜ける鬼神の申し子のような武将。
直情径行で自信家で、部下や庇護すべき者にはありあまる愛情を注ぐ一方、気に入らないヤツはすぐ大釜で煮殺すか穴埋めにしてしまう。
降伏した秦兵20万人を生き埋めにし、「阬」という字がそのまま「生き埋めにする」という動詞になっちゃったというんだから凄まじい。
愛憎ともに人より何倍も強く、単純で、粗暴で、強い。
三国無双で使ったら呂布ばりのステータスを誇るだろう。


一方の劉邦はうだつのあがらない農家の末っ子。
項羽よりも15歳ほど年上で、中年になるまで故郷でぶらぶらしていたところ乱世に乗じて前代未聞の出世をとげた。
戦には弱く女にはだらしなく、誇るべき武もなく、故郷ではろくでなし扱いされてきた。
唯一の取り柄は自分というものがないこと。
自分の意見がないからどんな人間の意見でも素直に聞くことが出来る。

自分をいつでもほうり出して実態はぼんやりしているいう感じで、いわば大きな袋のようであった。
置きっぱなしの袋は形も定まらず、また袋自身の思考などはなく、ただ容量があるだけだったが、棟梁になる場合、賢者よりはるかにまさっているのではあるまいか。
賢者は自分の優れた思考力がそのまま限界になるが、袋ならばその賢者を中にほうりこんで用いることができる。


茫洋として実のない劉邦だからこそ、人を生かすことが出来る。諸将が項羽を見限る一方、劉邦の元にはキラ星のような人材が集まってきた。
空虚さが上に立つものの資質だとは逆説的で面白い。
司馬さんは確か「龍馬がゆく」で西郷隆盛に似たような評を与えていたように思う。


さらに司馬さんによれば、当時の権力のあり方も劉邦に味方したという。
古代中国において「英雄」とは、より多くの人間を喰わせられる人物をさした。
飢饉や旱魃で貧窮した農民が村ぐるみ流民化し、喰わせてくれる親分の傘下に入る。
能力のある親分のもとには五万、十万、五十万と流民(兵士)があつまり、百万人の食を保証する者が最大の権力を握るわけだ。
劉邦はこの機微を熟知していた。


楚漢戦争の末期、項羽との最終決戦に臨んだ劉邦は城を捨てて穀倉にしがみつき、籠城戦を試みた。
武を重んじ食を軽んじていた項羽は長期戦に耐えず、結果飢える兵士を抱えて四面楚歌に陥る。
かの有名な七言絶句「虞や虞や汝を如何せん」を詠う項羽の脳裏に「食」の意識はなかった。
飢えを知り、食うことの意味を知っていた凡人・劉邦が英雄・項羽を下したのは歴史の必然だったかもしれない。

恩田陸「ネバーランド」

ネバーランド

ネバーランド

昨年9月から放置プレイが続いておりました雑読にき。
それなりに読んではいたのですが、書き留めておくほどの本に出会えませんでした。
月1くらいで書けるといいんですけどねー。今年はいい出会いがあるといいな。


さてさて、2013年第一弾は恩田陸さん。
「六番目の小夜子」「ライオンハート」「夜のピクニック」に続いて4冊目でした。
4冊読んでみた感想としては…出来が極端ですね恩田作品。
「六番目の小夜子」が非常にいい出来だったのでワクワクして読んだ「ライオンハート」はあまりに残念。なんかこうがっくり力が抜ける読了感というか、思い出したくもないわ。
そして1年ほど間をあけて手に取ってみた「夜のピクニック」と今回の「ネバーランド」は素敵でした。
恩田さんは輪廻転成ファンタジーとか歴史ものに手を出さず、学園ものを書いておけばいいんじゃないかな。


舞台は全寮制の男子高校。
冬休みに入り閑散とした寮で、それぞれの事情で帰省しない美国、寛司、光浩、統の4人が7日間を過ごす。
イブの夜の「告白」ゲームをきっかけに、4人の抱える秘密が明らかになっていく。
4人ともちょっと大人すぎるというか、かっこよすぎるので青春小説としてのリアリティはないのですが、だからこそセンスのいい会話を楽しめる。


学生時代ってのは今から思えばすごく変な時代だった。
みんな同じ制服を着て、名前入りの上履きを履いて、同じ方向を向いて、同じ黒板を見て勉強。
四角い机と四角いロッカーが割り当てられていて、学園生活のすべてがそこににきっちり収まることを要求される。
起立、礼、着席。
号令と時間割にそってこまぎれに流れていく時間。
でもその時間が一瞬で、いつか教室から出ていかなければならないことは誰もが気付いてたと思う。
期間限定の人間関係と期間限定の自分と。何を見せて何を見せないか、実験室みたいな空間だった。
その辺が巧く描けていると思います。


だからこそ、なんでこの青春小説が「ネバーランド」
なのかをずーっと考えてた。
だってネバーランドはずっと大人にならない子供が住むところでしょう?
冬休みが終わればみんなが帰ってくる学校の寮はどう考えてもネバーランドじゃない。
大人になって巣立っていく少年達の卒業アルバムの1ページをネバーランドとは呼ばない。
じゃあなんでこのタイトルなのか。


ピーターパンを初めて読んだのはピンクの岩波文庫でした。少年用じゃなくて、大人用の。
海賊の頭の皮を剥ぐインディアンやら置き去りにされると溺れ死ぬ置き去り岩やら、残虐描写満載なんですよね。
ウェンディ達の実家ダーリング家ではでかい犬を乳母にしているんだけど、子供達がいなくなっちゃった後、犬を鎖に繋いだことを後悔する父親が犬小屋に暮らすようになり一躍メディアの寵児になったり、なかなかシュールなエピソードもあったりして。
そのイメージが強かったのであとでディズニーのアニメを観たときは毒気の少なさに「子供だましかよ!」って腹が立った記憶がある。なんでティンクがしゃべんねん!みたいな。


今その文庫が手元にないのではっきりしないのですが、確かピーターパンは産まれてすぐ乳母車から落ちてロンドンのどっかの公園で迷子になって、気付いた時にはネバーランドにいたって設定だったかな?
親が悲しんでるかなーって家を訪ねてみたら別の男の子がゆりかごの中にいて…。
それって間違いなく死んであの世に行ってるわけで、そりゃ大人になるはずない。


で、永遠に大人にならないピーターパンは、ウェンディに「お母さんになってよ」って誘って連れて行くんです。
でもウェンディだってまだ子供。
彼女の中の「お母さん」は炊事洗濯つくろいもの、それから嫌がる子供達に水薬を飲ませるだけの存在なわけで、ようするにおままごとでしかない。ピーターに「お父さん」役はできないし、大人であるはずの海賊やインディアンも母親を求めてる。
そしておかしなことに、大人になって本当のお母さんになってしまったウェンディはもうネバーランドに行く資格がない。


ネバーランドに欠けているもの、それは「母親」である。
そう考えると、4人の男子が共通して抱える欠落感に思い至ります。
子供の頃母親に目の前で自殺された統。
父親とその愛人である母親が心中し、残された正妻と暮らす羽目になった光浩。
「親としてでなく1人の人間としての幸せ」を追求すべく離婚協議中の両親を持つ寛司。
そして小さい頃父親の愛人に誘拐されて以来、大人の女性に恐怖感を持つ美国。


保護者でかつ自分を全面的に守ってくれる(おままごとの)母親。
色気も水気も汚さもある大人の女性ではなくて、優しくて綺麗なだけの母親。
それが主人公4人には欠けているのです。
美国だけちょっと違うからかな、他の3人よりもだいぶ素直というか普通というか、キャラ付けが物足りない。
でもその素直さが、大人にならざるを得ない環境で擦れちゃってる3人にはたまらない魅力なのでしょう。
もしかしたら3人にとっては美国こそがネバーランドなのかもしれません。

万城目学「鴨川ホルモー」

鴨川ホルモー

鴨川ホルモー

「ホルモオオオォォォ−ッッ!!!」
今夜も京の街に謎の叫びがこだました。


二浪の末京大合格を果たした安倍は葵祭でバイト中、友人の高村と「京大青龍会」なる謎のサークルに勧誘される。
はじめは乗り気でなかった安倍だが、新歓コンパで同じく新入生早良京子(の鼻)にひとめぼれしたのをきっかけにサークルに顔を出すようになる。
愛しき鼻(ひと)に思いを告げられず悶々とする安倍。帰国子女なのにファッションはいかにも京大生、略して「イカキョー」な高村。凡ちゃんカットが勇ましい楠木ふみ。

それぞれの思惑が交差する中時は流れ、吉田代替わりの儀の日がやってくる。
ホルモーとは、1人100体の「オニ」を使役し戦う由緒正しき闇の競技であった。
茶巾絞り顔のオニにチョンマゲ男、京の街は魑魅魍魎が跋扈する戦場と化す。


ラノベテイストであっさり読める娯楽本といったところでしょうか。
非モテダメ男でさだまさし信者という設定の安倍はまぁよくありがちな主人公ですが、鼻フェチってのはありそうでなかったジャンルかな。
凡ちゃんあらため吉田の孔明こと楠木ふみや、良いヤツなれどどっかずれてる高村といった脇役も好もしい。
ホルモーですが、競技者が直接戦うことはないので、ようするにピクミンみたいな競技ですな。
細かい設定が結構面白くて、例えばオニはダメージを受けると茶巾がどんどんへこんでいき、いずれは昇天してしまうのですが、レーズンを食べるとその茶巾がぽこん、ともどるそうな。なぜレーズン?


実は小説を読む前に映画を観てしまったため、登場人物や風景が画像付きで再生されました。(第一印象に引きずられてしまったと言った方が正しい)
映画は設定こそ小説を忠実になぞっているものの、小説では表現しきれなかったディテールが盛り込まれエンタメ要素150%アップ(当社比)となっております。


高村を演じる濱田岳さんがとにかくツボなので、それだけで十分なのですが、なにより小説ではほとんど解説されることのなかったオニ語がふんだんに登場するのが素晴らしい。
オニを使役するために使われること独特の言語「朝の洗面台で嘔吐くおっさんのような」響きだそうで、

「アイギュウ・ピッピキピー」(我に続け)
「ゲロンチョリー!」(潰せ)
「ブリ・ド・ゲロンチョリー!!」(マジ、ぶっ潰せ)

などなど、へんてこ極まりない。
映画ではオニ語を発する度にいちいちへんてこポーズを決めねばならない制約があるのも素晴らしいのです。
楠木ふみ役の栗山千明があのキレーな顔で「ゲロンチョリー!!」と叫ぶ姿に萌えました。
吉田代替わりの儀式は必見です。


正直森見登美彦作品で描かれる京都の方が幻想風味豊かなのではありますが、青春小説として読むならばホルモーの方がすとん、と腹に落ちてきます。
くだらないことを真剣にやってのける人間の姿以上に観るものの心を打つ風景はありませんから。


ちなみに京大の原理研究会というサークルが「鴨川ホルモー探検記」をブログに載せてくれてます。
現役京大生から見た鴨川ホルモーのある景色ってのもなかなか趣がありますな。
森見さんといい、京大はユニークな人材のたまり場なようです。