吉野源三郎・羽賀翔一「君たちはどう生きるか」

 

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

コロナ禍が2年目を迎え、世界各国で人々が第3波、4波と日々相対する中、「終わりなき日常」と宮台真司氏が評したポスト・モダン社会は新たな局面を迎えている。

社会・政治機構、個人のアイデンティティといった、とっくに自明性を喪失していた事柄に加え、リモートワークやオンライン教育導入による「職場」「学校」といった共同体のヴァーチャル化(すなわち虚構化)、さらに私たち一人一人がウィルス感染を媒介するメディアであるというこれまでの健康概念を根底から揺るがす言説の進展によって、日常を構築していた自明性が瞬く間に失われつつある。

人=ウィルス媒介袋という認識を持って今後の時代を生きる「君たち」(若者)に、「どう生きるか」と問える「大人」はいるだろうか?

 

本作は1937年日中戦争前夜に出版された吉野源三郎の原作を、出版80周年を記念してコミカライズしたもので、漫画版と原作の新装版と合わせて1−2年で200万部売り上げたそうな。

児童向け哲学書の金字塔!と謳われる一方で、日本の未来を導くエリート少国民に向け書かれた優生・選民思想の滲み出る問題作としての批判も寄せられている。

確かに好みが分かれる本だろう。

物語を通じて主人公コペルくん(15歳)を導く元編集者の叔父さんが、(恐らく吉野源三郎が自分はこうありたいという願望を込めて)理想のメンターとして描かれているところは、あざといけど好きだ。子供を一人の人間として扱う親とは別の「大人」、しかも社会のことわりをちょっとはみ出していて(叔父さんは失業中)「話のわかる」大人を子供向けの作品に登場させる手法はよくあるけれど、コペルくんが考えたことに対する自分の考えを逐一ノートに書き留め、コペルくんのピンチに手渡してくれるほどコミットしてくれる「大人」はそういない。

日本が泥沼の戦争に足を踏み入れた当時の世相を考えれば、叔父さんのように表立って子供が自分で考える力を大事にする「大人」は稀有だったろう。また、子供の発見に素直に感激できる心の柔軟さを持った「大人」も。叔父さんの思想は偏っているけれど、キャラクター自体は(フィクションとして)いい。

コペルくんがニュートンのリンゴの話から「人間分子の関係、網目の法則」を発見するくだりもいい。粉ミルクの缶が膨大な社会経済の網目の中で生み出され、物流の網を通ってコペル家の戸棚に収まりまでの過程を、コペルくんが直感的に発見し、言語化する思考過程はワクワクする。計り知れない世界の広さと、その中での自分の立ち位置に想いを馳せるあの宇宙空間に自分が投げ出されたような感覚。高校生くらいの時に同じような思考実験をしたことがあったのを懐かしく思い出した。

一方で、貧困問題や階級思想の描き方は古臭さくて鼻につくし、死んだ父親が残した「立派な人間」になれというメッセージも偏っていて、重い。コペルくんの同級生が体験したいじめの顛末(親が介入する)が漫画版では完全に省略されていることもあって、消化不良な部分もある。第一、今の若い読者はコペルくんに感情移入できるのだろうか?

 

道徳の教科書だ哲学書だとありがたがらず、大人が子供時代を懐かしく思い、あの頃あんな大人がいてくれたらな、と願望を込めて書かれた大人の童話としてふんわり消費したらいいと思う。