「ノルウェイの森」村上春樹

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

むか〜し昔、実家の本棚に赤と緑のハードカバーが置いてあった。めずらしく父が流行りに乗って買ってきてみたのだろう。確か小学校に入る前だったような、おぼろげな記憶がある。クリスマスカラーにもほどがある、と手に取ってみることもないまま20年近くの歳月が過ぎ、ふと図書館で文庫版に巡りあった。
多くの人の手に触れてきたのだろう、上下巻ともどことなく茶ばんでいて、最初の数ページは水でもこぼしたのかしわしわに縒れ、奥付には誰かの傷口からにじみでた血らしきシミまでついている。


何人もの人が料理をしながら、煙草を吹かしながら、あるいは寝る前の夢うつつに、この本を読んできたのだろう。
だから古本は大好きだ。


村上作品はこれまで「海辺のカフカ」と「スプートニクの恋人」しか読んでいない。
それぞれ面白い部分はあったにせよ、「世の中を斜めに見ることが好きな少年あるいは青年が哲学的なことをつぶやきながら夢うつつを徘徊し、年上の女性とセックスする。そして人が幾人か消えたり死んだりする。」という以上の筋書きを見いだせなかった。


そしてノルウェイの森。


やっぱり同じように「ちょっと変わった」男の子が「ちょっと変わった」年上の女の人たちと出会ってセックスをする話だった。セルロイドかプラスチックで出来たような、孤独癖のある哲学チックな青年が「やれやれ」とため息をつく。
それ以上でも、それ以下でもない。


村上さんはサリンジャーになりたい人なんだろう。
主人公のワタナベ君は女の子たちから「あなたのしゃべり方、好きよ」とお褒めの言葉をいただく。「きれいに壁土をぬっているみたい」だとか、「ライ麦畑の主人公みたい」だとか。
でも、ワタナベ君の台詞はどれもこれもホールデン・コールフィールドの劣化コピーみたいで、読んでいるこちらの居心地が悪い。
だいたい英語で書かれた「ライ麦畑」の主人公みたいなしゃべり方をする日本人って何なんだ?気取った意訳をしゃべるのか?それとも登場人物はみな英語ネィティブで、Language Barrierなんか気にしないくらい、とっさに聞いた日本語を英語に変換して「似てる」と思うくらいマルチリンガルなのか?


サリンジャーファンとしては、どうにもこうにもいただけない。


「ノルウェイの森」の根本を流れるのは、サリンジャー作品同様「無垢なもの」への憧憬と失望だろう。それも再生なしの、巻き戻しのきかない失望。


ただ、日本人である村上さんには、あのニューハンプシャーの隠者が西洋的合理主義からの救済を東洋哲学・神秘主義に求めたようなある意味シンプルな救いが一切用意されていないのだ。
日本が夏目漱石以来抱く、英文学コンプレックス。エディプス・コンプレックスに酷似したその言説から一歩も出られず、自らをエスタブリッシュメントのように扱うセルロイドの男の子。それが村上さんの自己投影なら、そんなノスタルジアを読み続ける必要はないだろう。



ばいばい、村上作品。


Norwegian Wood