「ドグラ・マグラ」夢野久作

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

トロントに住んでいると日本の本に飢える。
日本語図書館や日本の小説・漫画を取り扱っている漫画喫茶なんかもあるにはあるのだけど、需要が格段に少ないためか、なかなか欲しい本が手に入らない。


そこで最近青空文庫の出しているiPod用アプリ豊平文庫をダウンロードした。著作権の切れた出版物をボランティアの人たちが電子書籍化してくれているサイトで、彼方に住む身としてはありがたいことこの上ない。
高校時代に学校や家の近くの公立図書館で読みふけった懐かしの作家達、芥川や夏目、萩原朔太郎に坂口安吾。エドガー・アラン・ポーやトルストイ、モーリス・ルブランの和訳なんかもある。
iPod Touchでは紙のページをしゅっしゅっと繰るあの楽しみはないけれど、縦書きの文字を右から左へ追えるだけで楽しくて仕方ない。


そして久しぶりに「ドグラ・マグラ」に手を出した。
確か大学受験の直前、澁澤龍彦訳のマルキド・サド「悪徳の栄え」と一緒に古本屋で買った覚えがある。学校をさぼって家にこもり、1日で上・下巻を読み切った。
…受験のプレッシャーはそれほど感じていなかったつもりだが、それなりに厭世的になっていたのだろう。よく気が狂わなかったな、18の私よ。


この風変わりな小説は探偵小説のジャンルに入るのだろうか?なにせ日本三大奇書の筆頭、ヘンテコで軽妙で洒脱で、そして身震いするほど複雑怪奇。小説中の説明によれば「ドグラ・マグラ」とは切支丹伴天連(キリシタンバテレン)の使う幻魔術のことだそうで、無理矢理漢字を当てるならば『堂廻目眩(どうめぐりめぐらみ)』『戸惑面喰(とまどいめんくらい)』となる…とまぁ如何にもなウンチクだが、この小説の怖さはそんなチャチな言葉では説明がつかない。


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物語の冒頭、柱時計が鳴って主人公は目を覚ます。…けれど自分がどこにいるのか誰なのか、皆目見当がつかない。どうやらその青年は九州大学病院精神科に入院している狂人らしい。隣からは「お兄さまお兄さまお兄さま」と自分らしき青年を求めるか細い少女の金切り声。


混乱する青年の前に2人のこれまた怪しげな教授が現れる。
法医学者の若林は青年が「呉一郎」という尊属殺人を犯した19歳の学生だとし、青年にその自覚を迫る。
一方精神学者の正木は変わり種。「脳髄は一種の電話交換局に過ぎない」と喝破する『脳髄論』やら「胎児は十月十日の間に万有進化の大悪夢を見る」とする『胎児の夢』やら、奇々怪々な学術論文を書いたあげく、精神病院を痛烈に批判する『キチガイ地獄外道祭文(げどうさいもん)』なる祭文をアホダラ経の節にあわせ木魚片手に全国行脚して回ったという。


ちなみにこの「胎児の夢」、相当に面白い。ここだけ取り出しても十分読みがいがあるほどだ。記憶は脳髄のみが持つにあらず。全身の何千億という細胞1つ1つが原始生命から人間にいたる記憶を保持しており、胎児は子宮の中で生命の歴史を早送りで夢見ている。細胞から分裂した胎児が魚やは虫類、獣の姿を経てようやく人間にたどりつくのがその証拠だというのだ。
この大胆不敵な論考こそ、夢野の生命論を如実に表しているだろう。人は単体にて生きるにあらず。自我とは太古より綿々と脈づく細胞の記憶によって流動的に作られている、というわけだ。
高校生だった私はこの論にヒドク感銘を受けたことを覚えている。(ほら、影響されやすい年頃だからw)


とまぁ、多分に脱線の匂いはあれど、ここまではまだ読者も主人公の青年と歩調を合わせ、記憶喪失の不安と理不尽さと、自分探しの謎解きに没入できるのだが。
夢野はここで正木の『外道祭文』や日記、さらには遺書?を挿入し、読者の混乱の渦に引きずり込む。「呉一郎」の克明な記録や家系図まで持ち出して主人公にそれを読ませることにより、記憶をなくした哀れな主人公はいったい誰が誰のことを書いていて、それを読んでいる自分は何なのか、むしろ自分はそこに存在するのか、出口のない迷宮に迷い込むのだ。


極めつけは「アンポンタン・ポカン」と名乗る入院患者の手記。その題名は、なんと「ドグラ・マグラ」。
そしてその冒頭は、そう
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という柱時計の音で始まるのだ。


読者が読んでいる本が作中にでてくるという手法はミヒャエル・エンデの「はてしない物語」でも採用されているが、それが狂人の手記なのだから恐ろしい。

狂っているのは誰?あなた?私?それともこれを読んでいる貴方?
ほら、柱時計の音が聞こえてきた。
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