「重力ピエロ」伊坂幸太郎

重力ピエロ

重力ピエロ

2010年以降一番もっともガツンときた小説は伊坂幸太郎作品だ。
帰国した時実家にあった「オーデュボンの祈り」を読んで、こりゃやべぇと思ったのを皮切りに、週末のフール、ラッシュライフ、アヒルと鴨のコインロッカー、ゴールデンスランバーなんかを立て続けに読みあさっている。
おかげでボブ・ディランやローランド・カークなんかも聴くようになった。影響されすぎだなw
ごく最近気付いたのだが、トロント公共図書館にもけっこう伊坂作品があり、inter-library loanを利用して最寄りの図書館に送ってもらって読むようになった。公共システムを活用できてなかったことに気付くとむやみやたらと悔しいのは私だけ?


伊坂作品は当たり外れがないのでそのうち何作品かレビューしようと思っているが、とりあえず手元にあった一冊から。
語り手は遺伝子関係の企業に勤める「泉水」。ハンサムで変人の弟「春」に誘われ仙台市内で起こる放火事件の謎解きに巻き込まれてゆく。母親がレイプされて生まれた「春」は、性的なものを嫌悪し、ガンジーと犬を偏愛している。「泉水」は探偵ごっこを続けるうちに、「春」が放火で過去を浄化しようとしていることに気付く。


家族愛の話のようで、そうではない。
物語末期でがんと闘う父親が春に「お前は俺に似て、嘘が下手だ」と伝え、泉水は「遺伝子関係ねぇじゃんか!」と痛快な思いをするのだが、父が「賞賛に値する」ことは間違いないとしても、春が「怒りの馬や煩悶の牛」を絶えずなだめ続けなければいけなかったのは、遺伝子の力に怯えていたからだろう。
これだけ素敵な父親と母親がいて、お守り程度には頼れる兄がいて、それでもなおレイプ魔=実の父を殺す必要があるほど春は遺伝子が怖かったのだろうか。遺伝子の重力なんて、空を飛ぶピエロには関係ないんじゃないのか?
もしピエロがそれでもやっぱり重力に魂を引かれてがんじがらめな道化にすぎないのなら、春はなにもわかっていなかったことになる。両親の決断も、兄の煩悶も、ガンジーの言葉も。(そして彼はバタイユを完全に読み違えている。)
だからこの小説は春の言葉を借りるなら、三島の金閣寺同様「青春小説」なんだと思う。青年の苦渋に満ちた成長を描くビルドゥングスロマン。(父殺しは青春小説の永遠のテーマだしね。あぁオィディプス。)


それじゃ伊坂作品の魅力って何だろうか。
洒脱な会話だとか効果的な引用だとか伏線回収の巧さだとか、「スタイリッシュ」な小説であることは間違いないが、伊坂さんの小説を魅力的にしているのは現実にいそうだけど実際にはいない、作者自身の言葉をかりるなら「地上から数センチ浮いた寓話風」の登場人物達だと思う。
確かドラえもんの映画で、白亜紀だかにタイムスリップした野比のび太一行が「虫を踏みつぶしても歴史が変わる」と猫型ロボットに脅されて、宙に浮く靴を履かされるシーンがあったような記憶がある。
バタフライ・エフェクトじゃないが、リアリティを土足で踏み荒らすのは危険すぎるってことだろう。


ただし、語り手はいつもこっち側の人間だ。
本作品でいえば泉水。
奇人・変人に振り回され、悩み、右往左往しながら流される常識人で、感情を噴出し、とまどい、読者のbody-doubleになって現実と寓話のずれを埋めてくれる。
寓意のない寓話が心に残らないように、地上数フィートに浮かんだ小説は読者の血肉にならない。
村上作品の「僕」が地上数フィートをぶっ飛んでるシリコン製ロボットだとしたら、伊坂作品の語り手は現実と常に接触しながらパラレルワールドとの扉を開くお先達さんだ。読者の半歩先をゆき、道を創ってくれる。
語り手ひとりが地上に足をつけて、読者を物語に引き込むのだ。ホント巧いなぁ…。


最後に。
同じ登場人物が他の作品に出没するのも(サリンジャー同様)伊坂ワールドの魅力なのだが、泥棒の黒澤さんがたまらない。
ジャン・ポール・ゴルティエを着こなし、盗みに入った家には領収書を残す。
きっと麻雀も神級で全自動卓の音を聞き分けるのだろう。
彼がもっと、見たい。