「博士の愛した数式」小川洋子

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

文系院生のご多分にもれず、重度の数学アレルギーに罹患している。
数字を見るだけで吐き気が…というほどではないが、θやΣ、√に∩なんかみると反射的に顔をしかめたくなる。素因数分解に複素数、三角関数にパスカル・トライアングル。
あうぅ…わかっちゃいるんだ。数学は哲学だってこと。
古代ギリシャの哲学者たちはみな卓越した数学者だったってこと。


学部時代、社会調査の手法の本を読んでいて、For Mathematical readers(数学アタマの読者へ)と書かれたページを見つけた。
わずか見開き2ページで量的調査の手法が説明されているのだが、その続きにFor Non-Mathematical readers(数学嫌いの読者へ)と題された15ページの文章が続く。
言葉にすれば15ページ必要なセクションが、数字記号を使えばわずか2ページで説明可能。ということは、数学記号1つに10行分くらいの言葉が詰め込まれていることになる。

数学記号はコトバが足りないのだ。
あんなちっちゃい文字の中に詩を詰め込んでいるから、コトバが足りなくて落ち着かないのだ。


でもこの小説はそんなアレルギーを柔らかく癒してくれる。
数学とは、数字とは、ものすごく美しいものなんだよって、高校時代の自分に教えてあげたくなる。


主人公の「私」は若いながら経験豊かなベテラン家政婦。
風変わりな数学者・通称「博士」に雇われるのだが、博士は記憶が80分しかもたない悲しい病気にかかっていた。
博士に取って毎朝出会う「私」は常に見知らぬ人。
2人の関係は、毎朝博士が電話番号や靴のサイズを聞くところから始まる。数字は博士のシェルターで、相手と握手をするために差し出す右手だった。


やがて「私」の息子「ルート」が加わり、物語は展開していく。子供へ注ぐ博士の愛情、数学との純愛、「私」が抱くほのかな恋心にも似た思慕。
波瀾万丈のストーリーではない。
数学が奏でる音楽をバックグラウンドに、物語は静かに進む。
数学嫌いだった「私」の数学への真摯な取り組み方にはっとさせられ、ルートの無邪気ながらも大人びた優しさに微笑まされ、毎朝記憶をなくして目を覚ます博士に胸が締め付けられる。


あちこちにちりばめられた数学理論が素敵なアクセントになっている。
博士がルートの宿題を手伝うシーンは、なるほどと首肯し、こんな先生がいたら自分のアレルギーもなかったろうと思う。
数学への愛が語られるシーン、特に虚数や直線など心の中にしか存在しないモノが語られるシーンは特に秀逸で、目に見えない世界が目に見える世界を支えるという、理論の真の意味が美しく描写される。


博士は「私」に大切なことを教える。
「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は目には見えないのだ。数字はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない。」

あぁ、そうか、と思った。
理論とは、哲学とは、普遍を求める終わりなき旅だ。
実践の対極に位置し、それは得てして学者を象牙の塔に閉じ込めるのだけど、理論化という試みそのものが、真実をコトバにしようとあがく人間の営みだからこそ、実生活に役に立たないからこそ、美しく、そして世界を支えているのだ。
実践なき理論が存在しないように、理論なき実践も存在し得ない。
理論を作れない学者は学者としての義務を放棄している。
学者になるとは、たぶん、そういうことだ。


80分しか記憶がもたないという残酷な試練を与えられた博士は、それでも与えられた恩恵を十分に理解していたことだろう。

「神は存在する。なぜなら数学が無矛盾だから。そして悪魔も存在する。なぜならそれを証明することはできないから。」


偶然ながら今日、ニューヨーク在住の数学者による素敵なビデオを教えてもらった。
数学的落書きの仕方
こういう数学の教え方をする教師がいたら、数学嫌いはいなくなるに違いない。