山口節郎「批判理論と社会システム理論:ハーバマス=ルーマン論争」

昨年末に久しぶりに社会学の論文を日本語で読んだ時の読書ノートを転載。

山口節郎(1984)「批判理論と社会システム理論:ハーバマス=ルーマン論争」
The Journal of the Japan Association for Social and Economic Systems Studies


ユルゲン・ハーバマスと、タルコット・パーソンズ系機能主義社会学者のニクラス・ルーマンが80年代初頭にガチンコ論争をしたっていう話。
ちなみに両者とも1920年代後半生まれでどちらもドイツ人。ほぼ同い年ですが、ルーマンはもう亡くなっている。つーかハーバマス長生きだ。

ルーマンの機能主義については『公式組織の機能とその派生的問題』について福井県立大学の田中教授がご自分の読書ノートにまとめてくれている。ルーマンを読む時の基礎用語がわかりやすくまとまっているので助かります。


さて、論争の要旨。
2人は何故ぶつかったのかを考える前に、山口先生の論文からまず2人の立場を整理しておこう。<ハーバマス>
Frankfurt schoolに名を連ねるcritical theoristのハーバマス。Adorno&Horkheimerを第一世代とするなら(One dimensional manのMarcuseも第一世代)、第二世代の旗手として位置づけられる。ただし、ハーバマスが第一世代フランクフルト学派と一線を画するのは、第一世代が近代理性主義、すなわちマルクスの資本主義批判に立脚した経済秩序による人間の道具化を徹底的に批判したのに対し、ハーバマスは近代理性批判を「主観=客観」のdichotomyに基づいた極端な批判として退け、「複数の主体による相互コミュニケーション」という概念を発展させてからintersubjective(相互主観的)なコミュニケーションの重要性に着目した。それまでの意識哲学をヴィトゲンシュタインの言語学を参照しつつ(したがってlinguistic turn言語学的転回とよばれる)、コミュニケーション論へと転回したわけだ。
労働=生産のパラダイムから、相互コミュニケーションのパラダイムへ。
ハーバマスがコミュニケーション学で重要とされるのは、これ故である。

さらにハーバマスは、経済プロセスへの国家介入が進むに連れて、生活世界へも国家が介入してくる危険性をあげ、国民すべてがconsumer(消費者)として主体性や自律性(agency)を剥奪され、批判精神を喪失した人間が生まれることを危惧している。

山口先生の論文ではこの点についてハーバマスは「道具的合理性」と「コミュニケーション的合理性」の区別を持ち出すことによって説明をしているとする。(これまでこういう風にハーバマスを読んだことなかった…不勉強の至りw)

  • 道具的合理性:科学的合理性であり、objectを機能性、効率性という観点で処理していく、システムの構築原理。
  • コミュニケーション的合理性: 社会的合理性であり、共同生活下において合意に基づく規範や価値観を構築していく、生活世界の構築原理。

現代社会は道具的合理性が支配する世の中であり、ハーバマスは従ってコミュニケーション的合理性の復権こそがbreakthroughにつながると論じた。ただし、それはpublic sphere論でみられたように、自由な市民によるrational debate(理性的議論)が肝要であり、公共圏への参加資格が全ての人間にあるわけではないと暗示する一種のエリート思想と、メディアの広告事業化、政治のエンターティメント化がすすむ中で、どう公共圏の批判機能を回復するかといった問題については解決法が提示されていない。


*そこで一時期インターネットは公共圏なの?って議論が盛んになった訳ですが…何をもって公共となすかが曖昧な現段階で、インターネット全体を一律な対抗文化と見なすのも、いくつかの些少なケーススタディを取り上げて民主主義は死んでいない!って言うのも違うだろうし、かといって近年のエジプトやシリアでの政治革命がインターネットを媒介にして行われたことを考えると、public sphereであるとも言えるだろうし。localpublicがhyperpublicと直接つながっているというのがインターネットの特徴の一つだけど、comfort of homeでクリック1つでアクセスできる便宜性とその身体性の特殊な現れ方を考えると、rational debateが実際にどこまで行われうるのかは疑問。<ルーマン>
一方のルーマンはパーソンズの機能主義(structural funcitonalismだから...構造機能主義が直訳か?)をさらに展開して機能主義的システム理論を提唱した。パーソンズの機能主義が有名な入れ子構造なのに対して、ルーマンのシステム理論はシステム間の階層を排除し、相互補完的な見方を提唱。世界は非常に複雑なものである、とした上で、複雑な世界をシンプルにするために「意味」が存在するとした。ただし、「意味」はシステムによって作られる秩序形態であり、個人が体験しうる生活世界での体験を矮小化しないようにも作用する。個人は主体的選択によって行為を決定するが、それが失敗した場合、その行為と等価にあたる別の選択肢を可能性として保持することで、自分の殻にとじこもり意味を見失うことを防ぐからだ。
こういった「意味」を価値判断基準にして選択肢を模索するやり方を、ルーマンは「等価機能主義」と呼ぶ。ルーマンはシステムを行為者の外にあって独立した統一体とみる。(この辺デュルケムっぽい…)


それでは2人がぶつかったのは何故でしょうか。山口先生は3つの争点をあげている。
1. 意味
ルーマンにとって「意味」とはシステムの問題であり、複雑な世界を生き延びるための戦略的選択肢である。これに対してハーバマスは意味をintersubjective communicationの言語規則に帰属させ、主体間のコミュニケーション過程があって初めて成立するとする。すなわち意味に媒介されるコミュニケーションとは共有されるメタシステム、つまり言語システムを介してのみ成立すると論ずる。
ルーマンにしてみれば、ハーバマスの立場は意味が言語によってのみ構成されると言っているわけで、それはあまりに短絡的。非言語コミュニケーションによって成立する意味構成はハーバマスの考えでは説明できないとする。意味はもっと深いところに根ざしているというわけですな。

2. 議論
ハーバマスにとって理性的議論(より正確には対話)は現状打破にとって必要不可欠な要素である。自明視されている社会的規範や観念を一度かっこに入れて、何者からも支配を受けない状況で理性的議論をたたかわせることこそが、主体性の復権につながると。要するにメタコミュニケーションの一形態である。
それに対してルーマンは、ハーバマスのintersubjectivityは言語システムの中に存在する狭い定義であり、言語システムが包括し得ない愛や闘争といった現象を網羅できない。さらにハーバマスの規定する理想的議論は、その受け手が社会システムである以上、如何に理想的な空間で行われたとしても社会的現実に理想的な形で還元されることはありえない。つまりはcoffee houseの枠を出ないわけだ。

3. 理論と実践
ルーマンにとって理論はシステムの一つであり、世界の複雑性を引き受けて、その解決法を選択肢として提示する。これについてハーバマスは、ルーマンのシステム論は理論を金科玉条のように取り扱うが故に実践を非合理の領域に追いやってしまい、コミュニケーション的合理性を正当に評価しないとする。イデオロギーの再生産だ!というわけ。
しかしルーマンにしてみれば、ハーバマスは実践の妥当性を誰がどう評価するのかという問題に触れていない。理性的議論による合意を社会秩序の根底に据えようとするハーバマスの考え方は、世界を白か黒かに分けて偶然性を無視する時代遅れの西洋哲学に囚われているとする。

結論として、山口先生は2人の対立が「主体概念を巡る考えの違い」から来ているとし、現今の思想傾向から見ればルーマンに分があるんじゃないかなーと言っている。


*しかしルーマンと比べるとハーバマスがすごい楽観主義者に見える不思議…。
プラトン的哲人王を目指しちゃうハーバマスに比べて、ルーマン的社会を追究すると世界の複雑性の中であっぷあっぷしながら無力感にとらわれて一歩も進めない近代人像がデフォになっちゃいそう。

でも理性的人間を批判的公共圏の担い手として定義するが故にエリート主義に陥りかねないハーバマスと、理性自体もシステムによって意味付けられる偶然性に依拠したものだとするルーマンと、どっちがagencyを正しく捉えてるかっていったら、後者だろう。反システム的対話・議論としてハーバマスがあげているのは、彼がどう言おうとやっぱりフィクションだし。

それじゃどうするか。

公共圏の考え方自体は、「理性」の定義を覆さない限り、哲人王の箱庭以外の何者でもないんだけど、その公共の定義をもっと多様で無秩序なモザイク的なものとして捉えたらどうだろう。
ルーマンの意見を採用し、個人はドラマツルギー的に役割を演じる中で理性的な意見を選択していくとかなーり楽観的に定義した上で(だいぶゴフマン風味だけどw)Illichの脱学校教育論(Unschooling)なんかを絡めると、システムの脱構築を経た上でのシステム再構築、生活世界への機能移譲ってのが可能になる気はする。

結局のところ、こうすれば未来は明るい!って言えないとしたら、それはsociology(社会学)ではなくてsarcasmiology(皮肉学)だと思うんだ。