小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

世界のどこか、ありふれた街でのお話。
祖父母・弟と暮らす主人公は父母を早くに亡くし、貧しい生活を送っている。
生まれてすぐ癒着していた唇を切り離す手術を受けた彼は、手術跡を恥じるようにいつも口をつぐんでいて、想像上の友達「ミイラ」と「象のインディラ」にしか心を許さない。

彼の人生を変えたのは、改造バスに暮らす「マスター」との出会いだった。
太っちょでおやつが大好きで、チェスのルールとチェスの美しさを教えてくれた先生。少年はマスターとの試合を重ねるうち、チェス盤の下に潜って猫を抱き、駒の音を聞いて次の一手を編み出す独特のスタイルを生み出す。
チェスの海に潜って詩を綴るような棋風から、少年は盤上の詩人と歌われたロシアのグランド・マスター、アレクサンドル・アリョーヒンにちなんで「リトル・アリョーヒン」と呼ばれるようになる。

棋士として着実に才能を開花させていく少年。しかし別れはある日突然にやってくる。
バスから降りることなく逝ってしまったマスターから最後に少年が学んだこと、それは「大きくなること、それは悲劇である」という真理だった。
意思が身体を制御したのだろうか、リトル・アリョーヒンは11歳で成長を止めてしまう。
彼の才能と小さな身体は、やがてからくり人形の下にもぐってチェスを差す、奇妙な仕事へ彼を誘うことになる。


博士の愛した数式に続き、2作目の小川洋子作品。
伊坂作品が地上から数センチ浮いているなら、小川ワールドは3.1次元に存在してるとでも言えようか。
おとぎ話にしてはグロテスク、現実にしては寓意がこめられすぎていて。
からくり人形の下、わずか50cm四方のスペースにもぐってチェスを差す?
目隠しチェスなんかもあるから出来ないことではないだろうけど、いくら主人公が子供並みの体格だといってもかなり無理があるのに、こんなん嘘だねーと破り捨てられない。なんだろう、この美しさは。


現実に一枚透明な膜をかけて5cmほど横移動させた程度の真実味と現実感のある虚構世界は、一度はまると病み付きになる。
谷川俊太郎の「透明な過去の駅の遺失物係」とか、石川啄木が「15の時に空に吸われちゃった心」とかは恐らく小川ワールドと同じところにあるのだろう。


寓話に真実味をもたせる小道具とチェスという哲学の海との絶妙な配分も現実=虚構のあぶなっかしいバランスづくりに加担している。
例えば主人公のおばあちゃんはいっつも布巾を握りしめている。

祖母は一日中、家の中でも外でも、起きている時も眠っている間も、ずっとその布巾を手放さなかった…台所で煮込み料理の鍋をかき回しながら、祖母はふきんで額の汗を拭う。孫たちの着替えを手伝いながら、それで鼻をかむ。近所の人と立ち話をしている間、くしゅくしゅ丸めたり広げたりする。夜編み物の手を休め、編み棒の先で布巾の上に何やら字を書く。
それは祖母の魔除けであり聖典であり守護天使であり、何より身体の一部であった。

おばあちゃんの布巾は、ライナスの毛布。
個人の生活にとけ込み、共に呼吸してさえいるような守護天使、相棒で、身体の一部。
そんなにも人に愛される幸せなモノがこの世には存在することを誰もが知っているゆえに、おばあちゃんはこの物語にまごうかたなきリアリティを与えている。


一方で、チェスが造り上げる目に見えない世界も美しく描き出される。
リトル・アリョーヒンがマスターに初めて勝利したある日曜の描写、少年が猫を抱いて空想友達と海を泳ぐその幻想世界の美しさ。小川さんは文字で絵画を描ける人だ。

登場人物がチェスを語るとき、語らないことに重きが置かれるのがまた面白い。
リトル・アリョーヒンの長年の好敵手であった老婆令嬢はこう語る。

だからチェスをさす人間は余分なことを考える必要などないんです。自分のスタイルを築く、自分の人生観を表現する、自分の能力を自慢する、自分を格好よく見せる。そんなことは全部無駄。何の役にも立ちません。自分より、チェスの宇宙の方がずっと広大なのです。自分などというちっぽけなものにこだわっていては、本当のチェスは指せません。自分自身から解放されて、勝ちたいという気持ちさえも超越して、チェスの宇宙を自由に旅する…そうできたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

リトル・アリョーヒンがたどり着いた老人ホームで、老いた名チェスプレイヤーがこうつぶやく。

もしあそこでこうしていたら、しかしああしたのはこう言う理由があったからで、だからこうしたのは結果から見て…などとくどくど自分のチェスに自分で意味をつけたがる。自分で解説を加える。全く愚かなことだ…口のある者が口を開けば自分のことばかり。自分、自分、自分。一番大事なのはいつだって自分だ。しかし、チェスに自分など必要ないのだよ。チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ


チェスであれなんであれ、見えない世界の美しさに魅入られた人の言葉は、5cmずれた透明の膜越しに、真実を貫く。
チェスの広大さを知り、自分が大きくなることを病的に嫌悪する少年は、意思の力で成長を止めた。
だが、小さいままであること、それもやはり悲劇ではなかったか。
愛する少女の肩を抱けない、邪悪からは逃げることしかできない。
大人になれないピーターパンの悲哀と言ってしまえば陳腐だが、自分さえなくして人形に潜る、そんなリトル・アリョーヒンの救われなさはやっぱり後味が悪い。
ただこれ以外に落としどころがないから寓話なのかもしれない。


蛇足だが、表紙に使われている前田昌良さんの作品がとてもいい。
伊坂作品の表紙に頻出するオブジェと作風が似ているので同じ人かと思ったら、そっちの方は三谷龍二さんという方なんだって。自分の勘の当てにならなさにがっかりだ。ちぇ。