「放浪記」林芙美子

放浪記 (新潮文庫)

放浪記 (新潮文庫)

貧乏自慢が嫌いだ。

院生なんかやってると、一言めには「金がない」という同級生達と呑みに行く羽目になる。金がないなら呑みにくるなよ、といつも思うのだが、彼らが飲み会を欠席した試しはない。うちらが大学からもらう給料はほぼ同じ…ならネタにするほど貧乏でもないだろう、オマエら。

「昨日2時間しか寝てないんだよね〜」の睡眠不足自慢や、テスト前の「全然勉強してない」自慢も同類だ。欲しいのは同情か、軽蔑か、はたまた尊敬なのか?どっちにしても自分に足りないものを恥じるどころか自慢の種に使う神経が理解できない。「金がない」と他人に言うほど恥ずかしいことは世の中にないと思うのだが。

だから、どんづまりの貧困をただ描いてる小説は嫌いだ。極貧に極貧を描き連ねて、不公平感を煽って、読者を不快にさせるだけさせて、同情の涙をさそうなんていかにも三文芝居。貧乏が辛いのは当たり前、貧困を詠った啄木にしても、そのあくまでも一人称の不幸を叙情に変え、果ては生きる力に昇華しているから人の心を打つのであって、貧乏の波にもみくちゃにされてあっぷあっぷしてるだけの物語なんて読むに値しない。


林芙美子さんの前半生は貧乏の百貨店だ。
行商、玩具工場の女工、子守りに女中に果てはカフェーの女給。薄給の食を転々とし、男に捨てられ蹴られ殴られ、時には死をすぐ隣に感じるほどまで追いつめられる。飢えと隣り合わせで寝る不安定な毎日。

それでもこの自叙伝は底抜けに明るい。
貧乏や屈辱がまるで文学へのエネルギーにそのまま置換されているかのように、自分の貧しさ・卑しさを恥じる言葉すら情感的だ。

例えば、薄汚れたカフェーの2階で雑記帳の端に別れた男への手紙をかく。
「...金が欲しい。白い御飯にサクサクと歯切れのいい沢庵でもそえて食べたら云う事はありませんのに、貧乏をすると赤ん坊のようになります...弱き者よの言葉は、そっくり私に頂戴できるんですけれど、それでいいと思います。
野性的で行儀作法を知らない私は、自然へ身を投げかけてゆくより仕方がありません...」

例えば、尽くした男の裏切りに気付いて書き付ける。
「地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえと、怒鳴ったところで私は一匹の烏猫だ。」

疲れきってあきらめきって、そこでこんなに洒脱な言葉を紡げる人を、私は知らない。


印象的なのはどん底生活にありながら本を買い続けていること。
チェーホフ、ハイネ、プーシュキン。ユージン・オニールにストリンドベリィ。果てはスチルネル(マックス・シュティルナー)の自我経から伊勢物語まで、活字で腹を満たすとばかりに読みあさり、やっぱり腹は膨れないのですぐに古本屋に売り払う。そのチェーホフを我慢すれば支那そばが食べられるでしょうに、それでも読むその一点豪華主義がたまらない。
放浪記を貫いて流れる強烈な生命力は、きっと本への執着という文学者の矜持からきているのだろう。

放浪記を彩るきらめくばかりの文才は、時折挿まれる詩に結集されている。

「富士山よ!
お前に頭をさげない女がここにひとり立っている」

「ああ二十五の女心の痛みかな」

「地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。」

おそらく貧乏や不幸や世の中の不条理を煮詰めに煮詰めて結晶化させたら、こんなに奔放で情感的な生命の詩ができるのだろう。