鷺沢萌「ウェルカム・ホーム!」

ウェルカム・ホーム!

ウェルカム・ホーム!

鷺沢萠さんの本は「F−落第生」「さいはての二人」に続く3冊目。
この本には2つの中編が収録されているが、1作目の「渡辺毅のウェルカム・ホーム」が好きだ。


「僕の家にはお父さんがふたりいる。」
小学生の憲弘が書いた作文に、毅は衝撃を受ける。
テキトーに結婚してテキトーに浮気して、テキトーに親のレストランをつぶして路頭に迷った毅を拾ってくれたのは、妻を亡くし子供を抱えてにっちもさっちもいかなくなった親友・英弘だった。
以来7年、毅はシェフならぬシュフとして、家事に育児に奮闘をつづけてきた。
しかし、憲弘の
「お父さんはサラリーマンだが、タケパパは家にいて、ごはんを作ったりそうじをしたり洗たくをしたりしている。」
という一節は、毅の「オトコの沽券」をちくちく刺激するわけで。
英弘には「ホモだと思われるのがイヤなんです」なんて言ったけど、ホントはフツーじゃない家族で「妻役」をやっちゃってる自分に違和感があったことに気付く。


でもじゃあ「フツー」って何だろう?


家事手伝いの「タケパパ」こと毅も、7年も前に妻に先立たれてるのに再婚もせず、毅に家事と育児を任せてる英弘も、家事能力ゼロの毅の彼女・美佳子も、誰もフツーじゃないって言えばフツーじゃないけど。
「こうするのが当然」って世間からの押しつけがどうも肌にあわないだけで、自分の得意な分野をそれぞれが分担してるだけなんじゃないかな。
このお話の素敵なところは、男だから!女だから!ってジェンダー論争だのアファーマティブ・アクション問題だのに突入するほど肩肘張って抗うんじゃなくて、

そういうの、もういいじゃん。誰もフツーじゃないし、誰もフツーじゃないんだから、逆にみんながフツーなんだよ。

って毅が結論づけること。
そうそ、フェミニズムはみんなのためのものなんですよ。
自分がフツーじゃないって思ってる人ほど、他人に優しいもん。他人のユニークさを認めることが、自分の得になるって知ってるもん。


ただ、そんな素敵な家庭で育った憲弘くんは、思いやりがあって空気が読める「すっげぇいい子に育ってる」んだけど、いろいろ我慢してる気もする。
作文のエピソードにちょっと匂わされてたけど、あと5年もしたらオー!ファーザー!の由紀夫くんみたいにかなりひねくれた子になるんだろうな。
毅も美佳子もみんなまとめて一緒に住んじゃえば、もっとウェルカム・ホームになるかもね。


小川洋子さんが透明な世界を創り出す小説家だとしたら、鷺沢さんはカラフルなシーンを一コマ一コマ描いてく小説家だと思う。
起承転結のはっきりした劇的なストーリーがばんっと描かれるんじゃなくて、どっか欠けてる登場人物たちが淡々とつむぐ日常のシーンの羅列。
普段意識を向けることのない日常の一場面や小道具を、登場人物の内面に絡めてすごく巧く描くんだこの人。
例えば英弘が高熱を出していることに気付いた瞬間の毅の行動。

体温計を片手に今度は階段を駆け昇り、英弘の口に突っ込む。そうしたあとでまた階段を駆け降りて、冷凍庫からはアイスノンを、冷蔵庫からは水のペットボトルを取り出し、ふたたび二階に駆け上がって洗面所に飛び込んだ。解熱用シートは二階のほうの洗面所にあるのだ。

この一連の動作、主人公の中では完全に日常の、無意識下で行われる動作である。最後の「解熱用シートは二階のほうの洗面所にあるのだ」ってのは頭の中での確認。
もうこれだけで毅がどんな人間で、家の中で普段どう動いているかがわかっちゃう。


「F−落第生」でも主人公がファミレスでまずいミルクティを飲むシーンがあって、その水のようなミルクティの様子がもうこれ以上ないくらい簡潔に鮮やかに描写されているんだが…シーンを読者の脳髄に叩き込むなんて、なかなかできることじゃない。
この作者がもう亡くなってるって大きな喪失だと思うわ。