「アンテナ」田口ランディ

アンテナ

アンテナ

この小説、何度読んでもぞっとする。
恐怖ではなく、閉塞感と不快感、それに少しの既視感?そんなものが混じりあった感情で薄ら寒くなるのだ。
あまりに不快で目が離せないから、最後まで読み切って救われたい。
途中で投げ出したら呪われるんじゃないか。
そんな気さえして、一生懸命ページを繰る。怖い本だ。


主人公の祐一郎は「臨床哲学」なる身体性に特化した風変わりな学問をやっている大学院生。実家には幼い頃突然いなくなった妹、真利江の「喪失感」が澱のようによどんでいる。
真利江の喪失を受け入れられず、新宗教もどきにのめり込む母。
真利江の失踪と入れ替わりに生まれ、見たこともない姉の代わりをさせられることで精神が破綻した弟、祐弥。
父はすでに逝去しており、祐一郎は機能不全家族の重荷から逃げることも、背負い込むこともできず、生きづらさにアップアップしながら救われない日々を過ごしている。


物語の前半で祐一郎が感じる閉塞感や生きづらさは「真利江は死んでも生きてもいない」という宙ぶらりんのデッドロックから来ているようだ。真利江の失踪以来、尋ね人番組や心霊バラエティでさらし者になったトラウマティックな経験も、状況打破への行動をためらわせる。

真利江は何故いなくなったのか?
どこにいるのか?

答えも出口もない疑問に責め立てられた祐一郎は自分の身体を切り刻む。
「切っている僕、切られている僕、そしてそれを見ている僕。三つの主体が僕の中でめまぐるしく入れ替わる。自分を切り刻むことの全能感にようやく僕は自分に戻る。大丈夫だ。僕は存在している。僕は何でもできる。僕は平気だ。」
自傷が一時的なカタルシスをもたらす、というのはリストカッター達がよく口にする言葉だが、その安心感や全能感の説明として「切る私ー切られる私ー観察する私」という三位一体をもってきた田口さんはスゴい。
主体と客体が同時に存在し、お互いを満たして収束している、完璧に閉じた世界。
世界を傷口に閉じることで、辛い自分は癒される。
でも、それは同時に世界からの孤立とdissociation(解離)を意味するわけで。


そして祐一郎はSMの女王様ナオミに出会う。
「妄想の力で他人を救済する」と豪語する、シャーマンのような不思議な女性だ。
ナオミとの肉体的・精神的対話を通じ、祐一郎は次第に自分の妄想を外に開いていく。完璧に閉じた祐一郎の妄想世界を開いたのは、性欲だった。


物語後半、ナオミによって開眼させられた祐一郎はひたすらオナニーし続けるw 
妄想の中で、夢の中で、現実で、悪夢やナオミや生身の女性を相手に、沸き上がる性欲をひたすら射精し続ける。
閉じた世界からあふれだした祐一郎は、初めて世界が痛いことに気付くのだ。
皮膚は自分と世界を隔てるのではなく、精妙に巧妙に外界の刺激を内側に伝えている。人間は世界を受信し続ける、そんなアンテナだ。
そして祐一郎はようやく真利江を受信し続けた祐弥の言葉を理解する。
「樹は大地の触角なんだ。そして人もまた、大地のアンテナなんだよ。」


生きづらさの打破をリビドーに求めるというのは、そのまんまフロイド流だし、祐一郎の取ったオナニーやセックスという手段はある意味すごく単純でバカバカしい(セックスが対話の一形態なら、祐一郎の欲望のはけ口になった女性は対話に参加させてもらえてないわけだし)。でも理屈っぽくて事なかれ主義の祐一郎を根本から変えるには、それくらい大きな情動が必要だった。性欲を通じて妄想世界を抜け出した祐一郎は、家族が溜め込んできた真利江という名の妄想を殺し、新たな生を生き始める。


死が生の裏返しだとか、死への欲望は性欲に置換されるとか、そういう議論はまぁ古くから哲学者がやってきたわけで(バタイユとかね)、田口さんはそれを小説にうまく組み込んだにすぎないんだけど、主人公の葛藤や思いが完全にフィクションなのにものすごくリアルなので、言葉がうわっすべりしていない。小説家としての技量が優れているということだろう。


ただし、一番面白かったのは祐一郎がナオミと出会うずーと前にSMを研究テーマにした理由を話すくだり。
ある日偶然見かけたSM写真展で、祐一郎はレンズが捉えたM女達に魅了されたと語る。縛られ、虐げられ、辱められたポーズで写真におさまる彼女達は性的虐待の被害者がほとんどだという。
写真家はこう語る。
「写真なら安全だからですよ。写真は一つの閉じた世界だ。彼女達は縛られている自分を写真に撮ってもらいたがる。自分が縛られ、卑しめられ、虐待されている写真を見て涙を流す。完結した世界の中で卑しめられる自分。それを客観的に見たいと渇望する。自分であって、自分でない。それが写真だ。そして言うんですよ。これで救われた…ってね」


この台詞を読んだ時、反射的にこれはマルクス言うところのcommodity fetishism (商品フェチ)の新しい形態だろうと思った。自己の商品化、それもトラウマティックな記憶を再現するような、傷をえぐるような行為を模倣して写真に記録し、自分を客観視することで逆説的に癒される。でも、次第に商品化という簡単な言葉で片付けていいのだろうか?と思うようになった。
この癒しはもしかしたら逆説ではないのかも。痛みは癒しの裏返しどころか、直結している問題なのかも。写真はやっぱり自分の一部で、それを見たいという倒錯したvoyeuristic(覗き見趣味的)な欲望が彼女達を救っているのかも。
祐一郎は閉じた世界から脱出することで、自分と家族を救ったけれど、写真の表面に世界を閉じてしまうことで救われる、世界と新たな関係性を築ける、そんなやり方もあるのかな…。(この辺博論の研究テーマなんですがw)
まだ私の答えはでていない。