「永遠の0」百田尚樹

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

日本にとっての終戦記念日はアメリカにとっての戦勝記念日だと気付いた今日この頃。
ライフ紙に掲載された海軍兵と看護婦のキスシーンを再現する「Kiss-In」のイベントがニューヨークのTimes Squareで開催されたそうだ。
不謹慎だとは思わない。


だけど、あの写真の看護婦さんが亡くなった祖母と同い年だと思うと、勝者と敗者の間に横たわるあまりにも深い溝に愕然とする。
読経に似た蝉の声、死の灰、玉音放送。日本人の終戦記念日は肌にねっとり絡み付く悲しみに彩られている。
黙祷で語られる8月15日と、若い2人のキスシーンに彩られる8月15日。あまりに違うあの1日を思うと、日米市民が分かりあうことなど、できないんじゃないかと暗澹たる思いに駆られる。忘れることは人間が人間らしくあるために必要な安全装置なんだけど。

戦勝を祝うなら戦死者にも哀悼の意を評してほしい。異論はあるだろうけど、靖国とアーリントン墓地は同列で語るべきだと思う。死者を悼んで何が悪い?ヒロシマ・ナガサキに原爆を落としたパイロット達だって、ベトナムで無辜の市民を虐殺した兵士達だって、アーリントンに祀られるんだろう?
「愛国心」というコトバへのアレルギー反応はいい加減やめるべきじゃないか。


そんなわけで終戦記念日にちなんだ零戦の本。
万年司法試験浪人生(ニート)の主人公が、特攻隊員として終戦間近に命を落とした祖父の生涯を調べる。当時の祖父を知る戦争の生き残り老人達を尋ね、インタビューしていくうち、天才パイロットと呼ばれた祖父の生き様が次第に明らかになっていく…。


と、まぁありがちなストーリーでして、特に小説としての面白みはない。老人達の独り語りが見所と言えばそうだが、せっかく主人公がインタビューして回る、という設定なのに、まったく会話がないまま老人達がまるでドキュメンタリー番組のナレーターのように饒舌に過去を語るわけです。
分量にして100ページ以上、1人の語り手が祖父の思い出やら、当時の大本営の狂い具合やらつらつらつらつら語るわけ。インタビューアーは一切口を挟まない。
そんなさァ、昔の知り合いの孫がいきなり尋ねてきて、4−5時間整然と思い出を語るなんて…やってみ?って言われてもできるわけないやん、あほらしい。


浅田次郎の「壬生義士伝」がインタビューアーを表に出さないインタビュー形式で書かれていて大成功しているのに比べ、この本は下手に現代の若者をストーリーに絡めたために、不自然さが拭えない。養祖父が抱える秘密ってのも、最初の方でなんとなく分かってしまうし、どんでん返しというわけでもない。
ニートが祖父の生き様を知り、「もっかい自分も頑張るか!」となるラストも非常にありきたりでつまらない。


恐らく作者が書きたかったことの一つは、「マスコミの戦争責任」について。特攻要員の生き残りである老人の口を借り、『特攻隊員はテロリストだ』と吹聴する新聞記者を『口舌の徒』だと怒りもあらわに非難する。またこの新聞記者が薄っぺらいんだ、コレ。

アメリカからしてみればカミカゼ・アタックも9・11も同じ狂気の沙汰だろう。ただ、国家間の外交手段の最終形態である戦争を、テロと同列に扱うジャーナリストなんて今いるのん?この小説にでてくる記者ってフィクションとしか思えないんだが…もしそれが本当に新聞記者のデフォルトなら、日本終わっとる(笑)

戦前の日本が国家的な狂気の中にいて、戦後「洗脳がとけた」という言説が正しいかどうかは、祖父母と話をしてみれば分かる。誰も天皇が神だなんて信じてはいなかったと思う。一人一人が一生懸命に日々を生きてきただけだろう。「イヤだ」と言えないことが多すぎた、その空気を「洗脳」と呼ぶのなら、軍部の官僚制をそのまま引き継いだ戦後日本も大差ない。

大日本帝国という国家システムが狂気をはらみ、舵取りをあやまったことは間違いない。それはテロという反国家システムにも言えることだろう。しかし、特攻隊員の人たちがテロリストと違うことくらい、別にこの本を読まなくても沢山の戦争関係の絵本や映画でわかっていることじゃなかろうか?


ヒトコトで言えば「100均で買える感動」といったところか。
泣かせたいのは分かるけど…あざといのよね。
浅田次郎が同じ題材で書いてくれたら、号泣できると思う。