「乳と卵」川上三映子

乳と卵

乳と卵

読書の夏。
図書館で東野圭吾作品を探していたら、すぐ下の段にあって何となくジャケ借りした。日本語の図書館とはいえ分類はアルファベットだからHの近くにKがあったりするわけで、というより今までアルファベット分類だってことに全く気付かず、なんで桐野夏生が村上春樹の近くに住んでるんだろ?なんてことも思わず書棚を漁っていたようです。


調べてみたら芥川賞受賞作なのね。
でも川上さんのブログはその前に、サリンジャーが亡くなった時に見つけて読んだ。大阪弁で「フラニーとゾーイー」をちょこっとだけ訳していて、親戚はみんな関西なのに1人だけ東京生まれ東京育ちでエセ関西弁しかしゃべれない私にしてみたら、特権階級だなぁとひがみっぽく感じた。
方言フェチだけど、グラース一家に大阪弁は似合わない。それだけは言っとく。
「太っちょのオバサマ」が「でぶのおばはん」になったら、ゾーイーが「フラニー、それはちゃうやろ」とか言い始めたら、私とサリンジャーとの間に壁ができる。せっかくの救いが遠いものになる。やめてやめて。


と、まぁ脱線はこれくらいにして。
「乳と卵」は「ちちとらん」と読むそうな。
おっぱいを大きくしたい39のお母さん・巻子と初潮を控えた小学6年生の娘・緑子が、東京に出てきて「わたし」のアパートで3日暮らす。「わたし」は巻子の妹で、東京で一人暮らしをしているところに、豊胸手術を受けたい巻子がやってきたという設定。
卵子やら初潮やら気持ち悪い緑子は、声も出したくない反抗期。用事があれば小さなノートで筆談し、巻子と「わたし」を居心地悪くさせる。


クライマックスでは緑子と巻子がそれぞれ自分の頭に生卵を1ダースずつぶつけてぐちゃぐちゃに泣く。流しに捨てられたフレンチドレッシングの白いどろどろした液体は精子のメタファーだろうか、母乳のメタファーだろうか。


母子がお互いに抱える不毛な生きづらさがこういった観念的でない形で消化されたのは好きだ。2人が相手の頭じゃなく自分の頭に生卵をぶつけたのも。


でも巻子がなんでおっぱいを大きくしたいのか、巻子はわかってるのに読者には伝わらない。
たぶん作者にとって豊胸手術の意味がわからないからだろう。


作者の声を代弁するのは、途中に脈絡なく挟まれる「胸を大きくしたい女子」とそれに反対する「冷っとした口調の女子」の口喧嘩だろう。
自分のもんを自分で好きにして何が悪い?と主張する胸大きく女子に対し、「男性的精神」を経由した価値観であることに気付け、と批判する冷っと女子。
「その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかないのよね実際、あなたは気付いてないだけで。」


あーそうそう、女性学やってる子とか自称・ジャーナリストって、ホントにこういうしゃべり方だ、と私は大きく頷いたわけです。
全ての個人的願望は社会的言説によってすでに決定されているわけで、あやつりピエロなのよ私たちは。でもそのことを自覚しているだけあんたよりマシ、ってな意見をつらつらーっと口から吐く。(まぁ私自身もどっちかといえばそっち側でして、今度から呑んだ時気をつけようと思います。)


そしてどちらも「なぜおっぱいを大きくしたいのか」には答えてない。大きいおっぱいってなんなんだろう?
作者にとって豊胸手術はこの痴話げんか程度のフィクション的なもので、自分が経験した初潮を取り巻くエトセトラよりぐっとリアリティが少ないのだろう。だからこそ、初潮について考える緑子のつぶやき日記は遥かに身にせまってくる。


卵子について、緑子はこう書く。
「生まれるまえから生むをもってる。ほんで、これは、本の中に書いてあるだけのことじゃなくて、このあたしのお腹の中にじっさいほんまに、今、起こってあることやと、いうことを思うと、生まれるまえの生まれるもんが、生まれるまえの中にあって、かきむしりたい、むさくさにぶち破りたい気分になる、なんやねんなこれは。」


議論をすれば男性主義がどうのこうのになってしまう豊胸手術や整形手術よりも、自分の身体の中にあるたまごに思いを馳せるこの台詞の方がよっぽどリアルだ。小学生の頃保健体育の授業で、自分の中にこどもの種がいることを初めて知ったときは気持ち悪かった。


最後に。
川上さんの文章の特徴だろうか?これ1冊しか読んでいないのでわからないけれど、しゃべり言葉をつらつら書いている感じ。谷崎潤一郎とはまた違うけど、句点が極端に少ない。
読みづらいと思う人もいるだろうけど、私は割と好きだ。
このまま芝居の台本に出来そうでもある。