「金閣寺」三島由紀夫

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

オトナになるということは、本を読み飛ばす技術を習得することだ。

電車の中で、バスの中で、ベッドの中で、風呂の中で、意味もなく字を追いかけ、意味もなく刹那の物語に浸り、そして二度と振り返らない。
心に残る台詞や読後感、そんなモノだけを脳内カテゴリに入れておき、他人との会話や自分の文章(排泄物)ちょっとしたエスプリを効かせたい時、引用してみる。

オトナとは、本を情報として使い捨てる存在だ。

しかし、時に脳内インデックスを飛び越え、脳髄の中にしみこんでくるような本が存在する。
血中に文学が入る、とでもいうか、目に飛び込む活字がどろどろとしたエキスのように脳内に注入されることがある。
それらの文章はひとたび本を繰ると硬く黒い小さな文字であることをやめ、むずむずと体を揺すって目から神経に飛び込み、あとはこちらの脳みそ内で勝手気ままに躍動し、覚醒剤のように眠りを妨げる。
我が心臓も勝手なもので、知らず鼓動を高め、眠るな眠るなとリズムを早める。
世界が本から飛び出して本を閉じても終わらない。


私にとってそんな制御不能な1冊が「金閣寺」である。
この本に関しては何を書いても陳腐になる。ハナから勝負になりゃしない。実際この書評も何度も何度も書いてはエントリーごと消している。
だけど、今どうしても、この本が投げかける「境界」の難問について、思っていることを書いておきたい。


主人公の寺僧は自分と外界との間にいくつもの境界を感じて育つ。

吃音による他人と自分、自分と外界の現実とのずれ。
ようやく言葉を発しても、たどり着くのは「鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実」。
辛抱強くじれったく自分の言葉に耳を傾ける相手の表情は、「恐ろしい鏡」のように自らの滑稽な焦燥感を映し出す。
言うまでもなく、鏡は真実を映さない。


父の死が象徴する精神と物質をへだてる壁。
「存在の表面から無限に陥没し」た父の死顔は、物質が人間から遠く隔てられた全く別の次元に存在することを主人公に教える。物質は存在への侮蔑を突きつける。


自分の醜さと美なるものとの境界。
「世界から拒まれた」自分と「世界を拒む」美しい女の顔。
(吃りがゆえに)外界へ参加すらさせてもらえない主人公の対極に位置する「有為子」の顔は「今切り倒された切り株」のように、「ただ拒むため」だけに主人公のいる世界にさらされた圧倒的な美として描かれる。
拒む権利すらない主人公は自分を美から阻害されたものと考えていた。


自分と美の象徴としての金閣との距離。
戦争という非日常は主人公に金閣を自分と同一の次元にまで引き下げることを許したものの、戦火をまぬがれることによってまた境界線の向こうへ去って行った。
金閣の戦火による運命的焼失を夢見ながら主人公は思う。

「私は今でもふしぎに思うことがある。もともと私は暗黒の思想にとらわれていたのではなかった。私の関心、私に与えられた難問は美だけである筈だった。しかし戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思うまい。美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分そういう風に出来ているのである。」


そして精神と肉体の越えられない溝。
何層にも重なる境界を外界と自分の間に引いた主人公は、それでも世界への執着を捨てきれない。
金閣を焼くと決意した主人公は、その崇高な行為を決意した精神が「決して馴れない飼い犬のような」日常に固執する肉体を置き去りにすることを知っていた。
そして精神と自らの肉体の不一致こそが、他人に自分を理解させる唯一の手段だということも。

決行前日主人公は菓子パンと最中を買い込む。
肉体が置き去りになるからこそ、その行為の最中に食欲という最も人間らしい欲望を喚起する必要性があったのだ。
絶対的孤独空間にいる自分の精神と、外界=後日事件を知る他人をつなぐかりそめの糸は、「空腹」というなまぬるい日常性、あるいは「人間らしさ」に他ならないと自答するわけだ。
むしろ主人公が金閣に火をつける直前に突然食欲に襲われた(不本意なことに)のは、世界を拒みきれなかった証のように思う。


もしかしたら「美」とは関係性の中でのみ生まれ移り変わり消えてゆく、あぶくのようなものなのかもしれない。
父が金閣寺を「美しいもの」と教えさえしなければ、寺僧は金閣を焼かなかったかもしれない。金閣(世界)は寺僧を拒まなかったかもしれない。
「金閣寺」に描かれた「美の難問」は突き詰めるとオィディプス・コンプレックスの姿をとる。


さらに、美を考える上で、興味深い描写がある。
空襲で負傷し腸を露出させた工員に主人公が「美」をみるシーンだ。

「なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆ったりしなければならないのであろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内臓がみにくいのだろう。…それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。…内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか?もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のように、しなやかに翻し、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことが出来たとしたら…。」

ただしその倒錯の後、「美」はどこにも存在しないだろう。
父なるものは倒錯美を肯定しないから。