「イン・ザ・プール」奥田英朗

イン・ザ・プール (文春文庫)

イン・ザ・プール (文春文庫)

精神科には不信感がある。
自分で通院したことがないのにこういうのも何だが、精神科に行って薬を処方されて症状が改善した人間が周りに存在しないからだ。

鬱を抱える友人・知人が、今回の抗うつ剤は合わなかったからもっと強い薬を試そうだの、眠れないなら眠剤飲んどけだの、医師に勧められるままモルモット化していく様子を見ていると、点数稼ぎの薬漬け治療を疑いたくなる。行動療法にしても結局本人と身近な人間の心労が倍増し、最悪の結果になったケースしか知らないし。
鬱はココロの風邪とはいうけれど、不定形で実体のないココロを商売にするなら簡単に診断して簡単に薬を出すような安易な「治療」は避けるべきじゃないのか?


心理学の星占い化に端を発したメンタルヘルス系用語・情報の一般への氾濫も、安易な診断や素人判断に拍車をかけている。適応障害や不定愁訴、ボーダーラインにアスペルガー、メディアは専門用語を適切な説明もなく垂れ流しすぎだ。そりゃ患者が聞きかじりの知識やネットの自己診断ツールで「自分はパニック症候群じゃないか?」とやってきたら、医師は専門用語で答えるしかないだろう。情報の氾濫で医師への不信感が高まり、即興で診断を出さざるをえない状況が生まれ、さらなるネガティブ・スパイラルが発生する。


「メンヘラー」や「ヤンデレ」、「リストカッター」なんかのラベルを「自分=ビョーキ」アイデンティティとして獲得することで、逆説的に不安定な自己を確定できる人もいるだろう。でも、結局型にはまることに変わりはない。型にはまること自体が苦しくてココロが痛んでるのに、病名でココロを縛ったら治るものも治らんだろう。


とまぁ精神科という現象には色々言ってやりたいことがあるわけだが、そんな世の中だからこそ、型破りな精神科医のフィクションが受けるようで。
よく知らんかったけど、このシリーズ大人気らしいね。本作の「イン・ザ・プール」に続いて出版された「空中ブランコ」が直木賞を受賞。映画やドラマ、舞台にまでなっているらしい。今度見てみよう。


主人公は精神科医伊良部一郎。総合病院の跡取り息子で、色白デブ、フケまみれ、マザコンの3拍子そろったブサメン。注射フェチで皮膚に針が刺さる様に生唾飲み込む変態だ。
ただし、主人公側の内面がかかれることはなく、一環して伊良部の元を訪れる患者達側の視点で物語が進む。
表題作「イン・ザ・プール」他、本文庫に収録された5編では5人の患者が伊良部の元を訪れる。被害妄想のコンパニオン、不定愁訴を抱える雑誌編集者、ケータイ中毒の男子高校生に強迫神経症のルポライター。中には「陰茎強直症」なる奇病にかかった会社員も。


様々な悩みを抱える患者に対し、伊良部は常に傍若無人なマイペース。注射(伊良部の欲望を満たすため)を除けば、カウンセリングだの投薬だのは一切なし。
患者とつるむのは大好きで(一種の行動療法?)、水泳にはまる患者がいれば一緒にはまり、ケータイ中毒の高校生とはメル友になり、コンパニオンと同じオーディションを受ける。
人の話はまるで聞かず、欲望の赴くままにやりたいことをやり続ける無邪気な伊良部の姿に、患者は少しずつココロの鎧を脱ぎ捨てて、悩みを解決していくのだ。まぁ、漫画ですよ。


特にケータイ中毒高校生の話はよかった。
四六時中ケータイ片手にメールを打ち、連絡が取れないと不安で不安でしょうがない。連絡が取れないからって死ぬわけじゃないのに、メールが来たからってトモダチってわけじゃないのに、ネクラな自分を必死で取り繕って、しまいには依存症になってしまう。
程度の違いこそあれ、ケータイ文化で育ってきた世代はみんなそうなんじゃなかろうか。
「つながってる感」や「空気」が何よりも大切な社会だから、ココロに負担がかかるのだ。


伊良部のように一緒に遊んでくれる医師がいたらココロの病気は減るだろう。ただ、こんなに暇で友達のいない精神科医も少ないだろうから難しいかな?