「風の谷のナウシカ」宮崎駿

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

あまりにも有名な宮崎作品だが、漫画は何度読んでもぐっとくる。
全7巻・13年に渡って書き続けられた「ナウシカ」は一編の叙情詩であり、手塚治虫の「火の鳥」と並び哲学書といって差し支えないクオリティを誇る希有な漫画だろう。


人類を焼き滅ぼした「火の7日間」から1000年、人類は攻撃的な生態系「腐海」のほとりで肺を焼く瘴気と獰猛な蟲達、石化の呪いに怯え、ほそぼそと暮らしていた。風の谷の族長の子ナウシカは、侵略を目論むトルメキア帝国と土鬼諸国連合の領土紛争に巻き込まれ、戦いの中で蟲と腐海の謎を解き明かしてゆく。


宮崎さんによればナウシカは、オデュッセウスに恋をした女吟遊詩人「ナウシカ」と、「蟲愛づる姫君」があわさったものだという。
奔放で自由で、世間の目を気にせず自分の生きたい道をいく少女。
王蟲を愛し、王蟲の体液で服を青く染めて金色の野をあるくとこなんて、伝説の使徒っていうより、まさに蟲愛づるお姫様。フツーは王蟲とか怖くて近づけませんから。
アニメ版ではこの側面が見事に強調された反面、正論主義者の小娘という印象がぬぐえないナウシカだが、漫画版では様々な出会いや別れ、人の生死を目の当たりにし、少女から母性をもつ大人の女性へと変身を遂げている。


紆余曲折を経たクライマックス。
ナウシカは巨神兵オーマと蟲使いたちを引き連れ、前人類が滅びの直前に残したシュワの墓地に向かう。墓地には失われた高度文明だけでなく、浄化が終わった後産まれる予定の人類の卵が残されていた。


墓の主(精神体?)は腐海が汚染された土壌の浄化プログラムであること、長い年月を経た浄化の後始まる人類再建に協力するようナウシカに求める。しかし、自分たち現在の人類(旧人類)がすでに恣意的に作り替えられ清浄な空気の中では生きられないことを知っているナウシカは、墓の主に真っ向から対立する。

「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」
「その朝が来るなら私達はその朝にむかっていきよう」
「私達は血を吐きつつ、くり返しくり返しその朝を越えてとぶ鳥だ!!」
「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう...亡びはすでに私達のくらしの一部になっている」

墓の主はナウシカを「虚無」だと、「闇」だとののしるが、ナウシカは巨神兵の火で墓所と新人類の卵を焼き尽くすのだ。
同じく墓所に迎え入れられたトルメキアの覇者(クシャナの父)ヴ王はナウシカを「破壊と慈悲の混沌」と呼ぶ。


物語の中でナウシカが幾度となく「青い衣の救世主」「正しい道を指し示す白い鳥」として土着の民からあがめられてきたことを考えると、非常に意味深な結末ではある。使徒が新しい世界の創造主を焼き滅ぼしてしまったのだから。
墓所に至るまでのナウシカが使徒として混沌に秩序と平和をもたらす役割を担っていたとしたら、ここでのナウシカは破壊と混沌を司るシヴァ神だ。
命とは光のみにあらず、闇と光が、汚濁と清浄がまざりあう腐海こそが生命なのだと、生は死によって育まれ、闇にまたたく命こそ生なのだと。
宮崎さんの生命哲学は「人間の物差しで清浄と汚濁を図るなかれ」ってことだろうか。語らずに終わっている部分が多いが、勧善懲悪を否定する流れは宮崎アニメに脈々と息づいているから、恐らく邪推ではなかろう。


ただし、最後に墓所の体液と王蟲の体液が同じという事実が明かされたのが気にかかる。王蟲は世界の浄化だけでなく、もっと大きな役割を担ってたんだろうか。王蟲と生きることによって、ナウシカ達の子孫は清浄な空気でも生きられるようになるのだろうか?


最後に特筆すべきは、映画では単なる高慢ちきな悪役だったトルメキアの第4皇女クシャナが、それはもうよだれ出るくらいいいオンナであること。部下思いで部下の信任も厚く、戦術に長け、美しい。自分が育てた第3連隊が父や兄の戦略にはまって無駄死にさせられる場面で、ぶつり、と髪を切ってたむけてやるなんざ、もうね、たまりません。
序盤で父王からスパイとして派遣された平民出身のおっさん参謀・クロトワとのかけあいは、キリシア様とシャア(ただしキャスバル属性除く)のやりとりを思わせ、思わずにやりとする。
なにより一度人間を捨てて蟲と死のうとしたナウシカと違い、あくまで人間として自分の血まみれの手で未来を切り開こうとするのだから、清濁あわせ呑むという立場で言えばクシャナの方が王道だろう。
代王として生涯トルメキアの復興に尽力しただろうクシャナは、果たしてナウシカと会うことはあったろうか。蟲と共存する道は探れたろうか?幸せな生涯であってくれればと願う。