小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

世界のどこか、ありふれた街でのお話。
祖父母・弟と暮らす主人公は父母を早くに亡くし、貧しい生活を送っている。
生まれてすぐ癒着していた唇を切り離す手術を受けた彼は、手術跡を恥じるようにいつも口をつぐんでいて、想像上の友達「ミイラ」と「象のインディラ」にしか心を許さない。

彼の人生を変えたのは、改造バスに暮らす「マスター」との出会いだった。
太っちょでおやつが大好きで、チェスのルールとチェスの美しさを教えてくれた先生。少年はマスターとの試合を重ねるうち、チェス盤の下に潜って猫を抱き、駒の音を聞いて次の一手を編み出す独特のスタイルを生み出す。
チェスの海に潜って詩を綴るような棋風から、少年は盤上の詩人と歌われたロシアのグランド・マスター、アレクサンドル・アリョーヒンにちなんで「リトル・アリョーヒン」と呼ばれるようになる。

棋士として着実に才能を開花させていく少年。しかし別れはある日突然にやってくる。
バスから降りることなく逝ってしまったマスターから最後に少年が学んだこと、それは「大きくなること、それは悲劇である」という真理だった。
意思が身体を制御したのだろうか、リトル・アリョーヒンは11歳で成長を止めてしまう。
彼の才能と小さな身体は、やがてからくり人形の下にもぐってチェスを差す、奇妙な仕事へ彼を誘うことになる。


博士の愛した数式に続き、2作目の小川洋子作品。
伊坂作品が地上から数センチ浮いているなら、小川ワールドは3.1次元に存在してるとでも言えようか。
おとぎ話にしてはグロテスク、現実にしては寓意がこめられすぎていて。
からくり人形の下、わずか50cm四方のスペースにもぐってチェスを差す?
目隠しチェスなんかもあるから出来ないことではないだろうけど、いくら主人公が子供並みの体格だといってもかなり無理があるのに、こんなん嘘だねーと破り捨てられない。なんだろう、この美しさは。


現実に一枚透明な膜をかけて5cmほど横移動させた程度の真実味と現実感のある虚構世界は、一度はまると病み付きになる。
谷川俊太郎の「透明な過去の駅の遺失物係」とか、石川啄木が「15の時に空に吸われちゃった心」とかは恐らく小川ワールドと同じところにあるのだろう。


寓話に真実味をもたせる小道具とチェスという哲学の海との絶妙な配分も現実=虚構のあぶなっかしいバランスづくりに加担している。
例えば主人公のおばあちゃんはいっつも布巾を握りしめている。

祖母は一日中、家の中でも外でも、起きている時も眠っている間も、ずっとその布巾を手放さなかった…台所で煮込み料理の鍋をかき回しながら、祖母はふきんで額の汗を拭う。孫たちの着替えを手伝いながら、それで鼻をかむ。近所の人と立ち話をしている間、くしゅくしゅ丸めたり広げたりする。夜編み物の手を休め、編み棒の先で布巾の上に何やら字を書く。
それは祖母の魔除けであり聖典であり守護天使であり、何より身体の一部であった。

おばあちゃんの布巾は、ライナスの毛布。
個人の生活にとけ込み、共に呼吸してさえいるような守護天使、相棒で、身体の一部。
そんなにも人に愛される幸せなモノがこの世には存在することを誰もが知っているゆえに、おばあちゃんはこの物語にまごうかたなきリアリティを与えている。


一方で、チェスが造り上げる目に見えない世界も美しく描き出される。
リトル・アリョーヒンがマスターに初めて勝利したある日曜の描写、少年が猫を抱いて空想友達と海を泳ぐその幻想世界の美しさ。小川さんは文字で絵画を描ける人だ。

登場人物がチェスを語るとき、語らないことに重きが置かれるのがまた面白い。
リトル・アリョーヒンの長年の好敵手であった老婆令嬢はこう語る。

だからチェスをさす人間は余分なことを考える必要などないんです。自分のスタイルを築く、自分の人生観を表現する、自分の能力を自慢する、自分を格好よく見せる。そんなことは全部無駄。何の役にも立ちません。自分より、チェスの宇宙の方がずっと広大なのです。自分などというちっぽけなものにこだわっていては、本当のチェスは指せません。自分自身から解放されて、勝ちたいという気持ちさえも超越して、チェスの宇宙を自由に旅する…そうできたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

リトル・アリョーヒンがたどり着いた老人ホームで、老いた名チェスプレイヤーがこうつぶやく。

もしあそこでこうしていたら、しかしああしたのはこう言う理由があったからで、だからこうしたのは結果から見て…などとくどくど自分のチェスに自分で意味をつけたがる。自分で解説を加える。全く愚かなことだ…口のある者が口を開けば自分のことばかり。自分、自分、自分。一番大事なのはいつだって自分だ。しかし、チェスに自分など必要ないのだよ。チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ


チェスであれなんであれ、見えない世界の美しさに魅入られた人の言葉は、5cmずれた透明の膜越しに、真実を貫く。
チェスの広大さを知り、自分が大きくなることを病的に嫌悪する少年は、意思の力で成長を止めた。
だが、小さいままであること、それもやはり悲劇ではなかったか。
愛する少女の肩を抱けない、邪悪からは逃げることしかできない。
大人になれないピーターパンの悲哀と言ってしまえば陳腐だが、自分さえなくして人形に潜る、そんなリトル・アリョーヒンの救われなさはやっぱり後味が悪い。
ただこれ以外に落としどころがないから寓話なのかもしれない。


蛇足だが、表紙に使われている前田昌良さんの作品がとてもいい。
伊坂作品の表紙に頻出するオブジェと作風が似ているので同じ人かと思ったら、そっちの方は三谷龍二さんという方なんだって。自分の勘の当てにならなさにがっかりだ。ちぇ。

北方謙三「望郷の道」

望郷の道〈上〉

望郷の道〈上〉

ハードボイルドってなんじゃい?
常々思っておりました。
固ゆで?冷酷非道な男塾?大豪院邪鬼?
よくわからないジャンルなれど、北方謙三さん=ハードボイルドって方程式は知ってたw


読んでみなきゃ分からんってんで、初北方作品に挑戦。
日露戦争間近、石炭景気に沸く北九州・筑豊炭田。遠賀川下りで石炭を運ぶ水運業を営む小添家の三男正太は、佐賀で古くから賭場をいとなむ藤家の女親方瑠偉の婿養子になる。賭場を継いだ正太は持ち前の商才を発揮し、見る見るうちに賭場を拡大していくが、当然よその賭場は面白くない。成功をねたむ遠野一味のあこぎなやり方にぶち切れた正太は、日本刀片手に遠野宅へ乗り込むが、すんでのところで止められ、九州所払いとなる。
九州追放後、単身台湾へ渡り製菓工場を立ち上げた正太。瑠偉は子連れで正太の後を追い、2人は再び苦難を共にする。成功を収めた正太と瑠偉の胸によぎるは捨ててきた望郷の想い。
思い出の古場の湯に2人が帰れる日は来るのだろうか。


これがハードボイルドってものなのかどうか私には判断がつきかねるところだが、男くさーいアウトローな世界で成り上がってく男の生き様がかっちょよく書かれてて清々しかった。


愛刀の延寿国村ひっさげて喧嘩(でいり)に向かう正太。
連れ添う瑠偉は懐に匕首、脱いだ片肌に緋鯉の刺青が泳ぐ。
完全に東映ヤクザ映画のノリなんですが、いや、シブいわー。
「うちん者ば、預かっとろう。返して貰いにきたばい」
九州弁で切る啖呵がこれまた方言フェチにはたまらない。
特に瑠偉姐さん、ほれぼれするわぁ〜。


正太は北方さんの曾祖父で「新高ドロップ」で知られる新高製菓の創業者・森平太郎氏がモデルとのこと。
主人公補正(+身内フィルター?)がかかるとはいえ、ふりそそぐ艱難辛苦にもめげず商才と合理性、手腕を発揮して仕事で成功を収めていく様子ってのは気持ちいい。
山口豊子さんの不毛地帯じゃないが、ずいぶんと商売のことがでてくるなぁと思ったら元々日経新聞に連載されてたのね。
立志伝中、成り上がり。ビジネスマンの好きそうなテーマなれど、日本が、日本人が必死に伸びようとしていた明治の頃の熱気を丁寧に描写していること、それに方言が醸し出すリアリティのおかげで、単純な成功ドラマを越えた読みものになってる。


ハードボイルドってジャンルはまだよくわからんけども、北方作品はもう1つ2つ読んでみるわ。

山田風太郎「甲賀忍法帖」

甲賀忍法帖 (角川文庫)

甲賀忍法帖 (角川文庫)

あけましておめでとうございます。
2012年第1弾に何をとりあげるかしばし悩んだが、忍者でいこうと思う。
「甲賀忍法帖」はなんと1958年刊行。
「バシリスク」というタイトルで漫画・映画化されたのでそちらの方が有名だろうか。
山田風太郎なら50年以上前に書かれた本作でなく、最近読んだ「明治十手架」か「婆娑羅」でもいいのだが、やはり忍者がでてこないとしっくりこない。忍法抜きの山風は餅抜きの雑煮みたいで味気ないし。


山風のイメージは強烈な赤ピンク。
近所の公立図書館の文庫本コーナーに毒々しいフューシアレッド(fuchsia red)というかカーマインレッドというか、ものすごく目立つ色の角川文庫シリーズがあり、春画めいた表紙とともに鮮明に記憶に残っている。
…たぶんエロ本だと思ってたからだろう。

なにせ山風の筆が描く女忍者(くのいち)はことごとくエロい。
肉感的で淫靡、時に卑猥なほどの色気を武器に、使命を果たすべく命を削って奮闘する。
生々しい官能描写があるわけでなし、今読んでみたら「ふーん」と読みとばす程度のエロスなのだが、何せ初見は十代前半。イケナいものを読んぢゃってる!背徳感にココロをふるわす、まさに禁断の果実だったわけです。
山風の忍法シリーズはいくつか読んだけど、風来忍法帖が一番面白かったなー。
香具師7人組が姫を守って忍者と闘うんだっけか。おかげで2chが流行る前から「香具師」の読み方知ってたわw


さてさて、甲賀忍法帖。
世継ぎ騒動に揺れ動く徳川家。三代目を決めるべく大御所家康がとった策とは、忍者による代理戦争だった。先祖代々骨肉の争いをつづける宿敵伊賀と甲賀、それぞれの谷から10名の精鋭を選び、最後の一人になるまで殺しあわせる。
皮肉なことに、伊賀と甲賀の若き首領は互いを恋するロミオとジュリエットだった…。


筋書きは単純なラスト・マン・スタンディング的サバイバルものなのだが、秘術の限りを尽くして闘う、その秘術がなんせまぁものすごい。
ねばねば糸を口から吐き出す蜘蛛男、全身の毛穴から血液を吹き出す女。
ぐにゃぐにゃ骨なし男に塩に溶けるナメクジ男、体色を自由に変えるカメレオン男に全身の毛が針のようになる毛むくじゃら。
自由に顔を変える男や、虫を自在に操る少女なんかは割と可愛い方で、手足のない身体に槍を吞み込み腹の鱗で這う芋虫男やら首を切られても死なない不死身の忍者が出るに至ってはもう、フリークショーを越えて凄まじいとしか言いようがない。


しかもここが山風最大の見所なのだが、これらトンデモ忍術は「あきらかに人間の、いや生物の、肉体の可能性の範囲にありながら、しかも常識を絶したもの」だそうで、医科大卒の経歴を生かしてか?いちいち科学的説明がなされるのだ。

たとえば蜘蛛男、風待将監の吐く糸は強烈に粘度の高い唾液だという。

人間が一日に分泌する唾液は千五百ccにおよぶ存外大量のものである。思うに将監の唾液腺は、これを極めて短時間に、しかも常人の数十倍を分泌することを可能としたものであろう…ここまでは異常体質としても、それを息と頬と歯と舌で、あるいは粘塊として吹きつけ、あるいは数十条の糸として吹きわけるのは、やはり驚嘆すべき錬磨の技だ。

な、なるほど。錬磨をすれば唾液がちょっと粘つく人なら蜘蛛の糸が吐ける…わけなかろう。

不死の忍者、薬師寺天膳の秘術に至ってはこうである。

奇怪は奇怪だが、世にあり得ないことではない。蟹の鋏はもがれてもまた生じ、とかげの尾はきられてもまたはえる。みみずは両断されてもふたたび原型に復帰し、ヒドラは細断されても、その断片の一つずつがそれぞれ一匹のヒドラになる…薬師寺天膳は、下等動物の生命力を持っているのか?

な、なるほど。確かにミミズは両断されてもまた元に…って進化の歴史どれだけ無視するつもりなのか。
イエス、人間。高等動物。
あと「持っているのか?」って、読者に問いかけないでいただきたい。答えられないし。
もっともらしく例を引く辺りテキトー病理学にもほどがあるw


とまぁ、抱腹絶倒・ファンタスティックな殺しあいが全編を通じて淡々と展開される甲賀忍法帖だが、山風さんの何よりもスゴいところはこれだけ練りに練ったキャラクター達を惜しげもなく死なせることだろう。
サバイバル要素のない他の忍法帖でも、大概は仲間がどんどん減っていくパターンだし。
「忍びの者」と呼ばれ歴史の裏舞台を暗躍し、ぼろ雑巾のように使い捨てられる忍者の悲哀を描いた…といえばもっともらしいが、単に山風さんが次々違う秘術を出したいだけかもしれない。


奇想天外な秘術に驚き、くっだらねーとげらげら笑って後味すっきり。結局こういうエンタメが好きかも。

横山秀夫「第三の時効」

第三の時効 (集英社文庫)

第三の時効 (集英社文庫)

「半落ち」に次いで2冊目の横山作品。
「顔」もいっしょに借りて読んだんだが、似顔絵描きの婦警さんが主人公だからか、後味イマイチ。もともと心理描写が極端に少ない横山作品なのに、女性を主人公にしたからか、無理矢理ぬめっとした心理描写を差し込んできていて、あんまり気持ちがよくなかった。(指鉄砲のシーンとかもうね、見てらんない)
やっぱり横山さんは警察もの、それもゴリゴリの男社会で繰り広げられる息詰まる心理劇を書いていただきたい!警察・司法というガチガチの階級社会、その中で個人が葛藤を抱えながら犯罪に立ち向かう、そんな横山節がたまらないのです。


ということで王道の本作。F県警強行犯係の面々を主人公にした連続ものの短編集で、ミステリ風味満載。
「青鬼」の異名を取る一班の朽木、公安上がりで搦め手を得意とする二班楠見、動物的カンと閃きで真相を見抜く三班村瀬とくせ者ぞろいだ。
3人ともそろいもそろって莪が強い。
強行係を任せられた田畑課長に言わせれば、「職人」「プロ根性」というより「情念」「呪詛」とっいった禍々しい単語で表現するのにふさわしい、ファイティングマシンの集団である。
検挙率ほぼ100%、黒星なしの史上最高ともいえる強力な布陣なのだが、人を人とも思わない班長たちを抱えて、可哀想な田畑課長はため息ばかりの毎日を送る。
人物描写も内面描写もギリギリまで削っているのに、登場人物が鮮やかに目に浮かぶってのは横山さんの筆力もあれど、刑事ドラマの影響かね?


収められた6作品のうち、表題作の「第三の時効」がミステリとしては最も完成度が高い。
迫る時効、楠見のトリック、そしてどんでん返し。
鉄仮面・楠見の冷血なやり方は外道の一言なんだが、最後の最後で真犯人の自白を引き出せなかったら、即時間切れアウト!なギャンブルでもある。
全体を読んだ後にもう一度読み返してみると、一番冷静に計算しているようで一番危ない橋を渡ってるのが楠見ってのは面白い。


でも個人的に一番好きだったのは「ペルソナの微笑」。
「強行亭一飯」こと矢代は、えせ落語をあやつるおちゃらけ刑事。少年時代、知らずに犯罪に加担させられたトラウマからお調子者キャラの仮面をかぶっている。
同じく子供が道具に使われた13年前の青酸カリ殺人事件が再び捜査線上に上がってきて…。
矢代はF県強行係には珍しく、口数の多い明るいキャラなんですが、それがすごく悲しい。犯罪の道具として使われたトラウマから犯罪をひどく憎んでいるんだけれど、その一方で「偽りの笑み」を浮かべざるを得なかった彼がひどく悲しい。
特に大詰めでの被疑者との対決。
矢代は鏡の中の自分のような容疑者と対決することで、トラウマを乗り越えようとしたのだろう。
しかし結果は違った。

微笑みの仮面など最初からかぶっていなかった。この男はいつも、ナマの顔に、ナマの笑みを浮かべていただけだった。
同類ではなかったのだ、自分とはーーー。


殺人は、殺された人だけでなく、関わった人全ての人生を狂わせる。
だから憎むのだ。憎悪とも執念とも怨嗟とでも言うべき執拗さで、F県警強行係は殺人犯を追いつめる。
矢代が本心から笑える日は来るのだろうか。
笑わない男朽木が笑う時はあるのだろうか。
第一弾と銘打たれたこのF県警シリーズ、第二弾が待ち遠しい。

「オー!ファーザー」伊坂幸太郎

オー!ファーザー

オー!ファーザー

高校生の由紀夫は母親と父親の6人暮らし。
ん?計算合わない??
だって父親4人いるんですもん。


由紀夫の母親は結婚前四股をかけていて、由紀夫を妊娠したのを機会に、誰が父親かわからないけどみんなで家族やっちゃえ、となった。
ギャンブル好きの鷹、女好きの葵、スポーツマンで熱血教師の勲、大学教授の悟。
由紀夫は生まれた時から(麻雀好きということを除けば)全く共通点のない父親4人に囲まれ、勉強もスポーツも女関係もうまいこといっているのだが、老成しているというか、少々ひねくれて成長している。
何かにつけて「俺に似ている」「やっぱり俺の子だ」を連発する4人は由紀夫に干渉してくるわ、鬱陶しいわ、父親面しまくるのに、DNA鑑定に踏み切る勇気はないあたりが微笑ましい。
鷹曰く、「そんな鑑定なんかして、もし俺が父親じゃなかったらどうすんだよ」ということらしい。


こういったタイプの主人公にふさわしく?由紀夫は典型的巻き込まれ型のヒーローだ。
中学時代の悪友鱒二や同級生の多恵子に振り回され、思いもかけないトラブルに巻き込まれつつ、やれやれとため息をつきながら問題を解決していく。
手旗信号、クイズ番組、ランナウェイ・プリズナー、鱒二の父など前半に用意された伏線が見事に回収されるのは相変わらずの伊坂節。
理想の父親なんていないけど、由紀夫にうざがられながらもがんばって父親を演ろうとしている4人を見ていると、ボーヴォワールをもじって「人は親に生まれるのではない、親になるのだ」と言いたくなる。


本作品は2006-7年に新聞で連載していた小説を2010年になってまとめたものだそうで、伊坂作品第一期の最後にあたるらしい。
あとがきで伊坂さんは単行本化が遅れた理由を
「物語があまりに自分の得意な要素やパターンで作り上げられているため、挑戦が足りなかったのではないか、と感じずにはいられませんでした」
と書いているが、巧妙な伏線の配置といい、魅力的な登場人物といい、伊坂ワールドの真骨頂だと思う。
さらっと読めてしかも心に残る、巧い小説のお手本だ。


そして文章中に散りばめられた素敵な台詞の数々。
他作品に比べて割と日常に近い(といっても地上から数センチ浮いているけど)主題だけに、日常会話で使いたいコトバがたくさん出てくる。


試験期間を控えた由紀夫に悟さんがこう言う。

人が生活をしていて、努力で答えが見つかるなんてことはそうそうない。答えや正解が分からず、煩悶しながら生きていくのが人間だ。そういう意味では、解法と回答の必ずある試験問題は貴重な存在なんだ。答えを教えてもらえるなんて、滅多にないことだ。だから、試験にはせいぜい、楽しく取り組むべきだ。

あるいは、ゲームセンターの格闘ゲームで対戦相手の中学生をぼこぼこに負かした鷹さんが言う。

あのな、大人の役割は、生意気なガキの前に立ち塞がることなんだよ。煩わしいくらいに、進路を邪魔することなんだよ。

もし俺が部屋に閉じこもったら?と由紀夫に聞かれ、勲さんが即答する。

お前の閉じこもっている部屋の外壁を、工事車両でぶち壊す。そうすりゃ、ひゅうひゅう風が吹き込むし、きっと泣きながら出てくる。いくら部屋に閉じこもっていたところで、外の壁を壊してしまえば、そこはもう部屋じゃなくて、外だろ。

女の子の扱いはプレイボーイの葵さんの独断場だ。

大腿骨と女の子と、どっちが大事なんだよ。大腿骨はそのうち繋がるけど、女の子は二度と戻ってこないぞ。


4人全員にちゃんと名台詞が用意されているあたりは予定調和なんだけれど、すごく考え込まれた洒脱な台詞を一人一人に配置するあたり、伊坂さんの愛を感じる。
親になったらこういう台詞を子供にかけてやりたいな。

「ロズウェルなんか知らない」篠田節子

ロズウェルなんか知らない (講談社文庫)

ロズウェルなんか知らない (講談社文庫)

篠田さんの本はこれで3冊目。
神鳥、女たちのジハード、と名は体を表す2作品を読んでいたので、題名から勝手に異星人・UFO系サブカルネタ、もしくは政府の隠蔽を暴くサスペンスストーリーか?と期待していたのだが、見事に裏切られた。
ロズウェル事件、出てきません。キャトルミューティレーション、しません。(残念)
でも、読み終わってあぁなるほど、と腑に落ちる。そこはやっぱり篠田さんの力量といえよう。


物語の舞台は過疎に悩む町、駒木野。
2,30年前までは首都圏から人を呼べるスキー場があり、それなりのにぎわいを見せていた駒木野だが、新幹線と高速道路ができて以降スキー場も撤退し、閑散とした民宿街には閑古鳥が鳴くばかり。
殿様商売にあぐらをかいてきた村の老人達はスキー場さえ撤退しなければ…ゴルフ場さえできていれば…と愚痴を連ねるだけで、旧態依然としたやり方を改めようとしない。
2030年には人口がゼロになってしまうというお先真っ暗なこの町に取り残されてしまった駒木野青年クラブの若者たち(といっても30代ー40代)は、閉塞感に打ちのめされつつもあの手この手で町おこしに取り組む。


ブレイクスルーをもたらしたのは、自称文筆業の変人・鏑木だった。
土地付き一戸建て住宅を賞品にしたカラオケ大会で優勝するや、ちゃっかり駒木野青年クラブに混ざって町おこしに奇想天外なアイデアを出しまくる。
ストーンサークルねつ造から始まり、廃墟と化した遊園地をオカルト色満点の不思議ランドに作り替え、さらには幽霊や座敷わらし、UFOを登場させ、駒木野を一躍「日本の四次元地帯」に仕立て上げてしまうのだ。
最初は難色を示していた老人たちも、オカルト雑誌やテレビの取材で人が集まるようになってからは一転、虚構の世界にどっぷりはまり込んでいく。


一番の見所は、主人公(一応)の靖夫の母で、民宿「きぬたや」の女将が、オカルト番組の取材に対し、突然ありもしない雛人形伝説を語り出すところだろう。
遺跡もない、温泉もない、仕事もなければ夢もない、そんな駒木野青年クラブのやぶれかぶれのエネルギーが住民みんなを巻き込んでファンタジーを現実にしてしまう。
古風で常識的な靖夫の母まで悪ノリに巻き込んでしまう、大掛かりな文化祭のような意味の分からない熱狂は、まさに「四次元地帯」の仕業かもしれない。
結局ちゃちなやらせはすぐに暴かれ、青年クラブの面々は町を敵に回してしまうのだけれど、手作りの町おこしは地道に町の知名度を上げており、また町には活気が戻るかも?といった終わり方になっている。
(最後に嘘がホントになるシーンがあるのだが、完全に蛇足。あれはいらなかった…)


これだけだと単純なコメディなのだが、篠田さんの作品に共通する屋台骨というか、世界観というか、細かい設定がしっかり練り込まれているため、読み応えがある。
ハコものを優先し巨額を投じて失敗する行政主導の町おこしへの反感や、世代間の対立、昔からの住民と新住民の衝突。
過疎の町の若者が抱える都市への屈折した憧れと嫉妬。
なかでも青年クラブと行政職員のやりとりは非常にリアルで面白い。
オランダ村だのドイツ村だの、一時期はやったハコもの村おこしから、安価で維持可能な草の根町おこし(B級グルメとか)へとシフトしている昨今、フィクションとはいえ駒木野モデルがあってもいいんじゃないかとさえ思う。


ただ、「日本の四次元地帯・駒木野」は一過性のブームで終わりそうだ。
地場産業と結びついたわけでも、持続可能な収入源を得たわけでもなく、所詮観光客の落とす金頼みでしかないもの。
これじゃやっぱり駒木野の未来は暗いんじゃ…と勝手に心配になってしまう。


また「女たちのジハード」ほど個々のキャラが立っていないこともあるのだが、物語の序盤は正直テンポが悪く、登場人物の見分けがつかない。
中盤以降にようやく青年クラブの面々がそれぞれ個性を発揮して物語を引っ掻き回してくれるのだが、かなり後半になるまで鏑木以外の活躍が心に残らない。
町から来たストレンジャー対青年クラブという構図がまとまりすぎていてダメなのか、それとも篠田さんは男性中心の物語は苦手なのかな?

「ララピポ」奥田英朗

ララピポ

ララピポ

「負け犬」ブームって去ったのかな?
確か30代超で婚暦・子供なしの女性のことを差すコトバだったっけ。社会的ステータスはあるけど伝統的に言われてきた「結婚・子育て=シアワセ」って方程式にはあてはまらない女性が自分たちをそう呼ぶ、自嘲気味な逆説的エンパワメントと教わった気がする。

でも社会的地位がある時点で負け犬ではないわな。社会的には思いっきり「勝ち組」じゃんw
所詮、「結婚・子育て=女のシアワセ」「仕事・成功=男のシアワセ」っていう手垢のついた方程式を逆にしてみた、出来損ないのアンチテーゼに過ぎない。
アンチってのはその対象がないと存在し得ない寄生虫です。生産性も再生産性もありません。アンチモダンとポストモダンは違うのです。
それに仕事/家庭の2つでしかシアワセを測れないってのも、つまんない。
も少し周りの声とかマスコミのイメージに踊らされず(草食系とかもね)、シアワセの尺度を変えたらいいと思います。


で、ララピポ。
ララピポが何を意味するかは読んでいただくとして、本作品の「負け犬」は本来の意味で使われている。
強い相手には牙を剥かず、ヒエラルキーの下の方で運命に服従し使役される、哀れで卑小な人々のお話。
6人の負け犬が1章ずつを担当し、それぞれが微妙にリンクしながら物語を創ってゆく。


引きこもりフリーライターから始まり、風俗スカウトマン、ゴミ屋敷の主婦、転じて熟女AV女優、徹底的に押しに弱いカラオケ店員、援助交際にはまる官能小説家、テープリライター兼デブ専裏DVD女優。
まさに選りすぐりの負け犬。しかもオン・パレード。
登場人物一人一人のへたれ具合や運の悪さ(自業自得だったりするけど)、不幸の連鎖がこれでもかこれでもかと描写される。
この6人を基軸に、流されるままAV女優になっちゃうデパガ、カラオケ屋で売春する女子高生たち、仕事をさぼって情事にふける郵便局員なんかの脇役が負け犬モザイクを彩るわけで。
下手するとこっちが鬱になりかねない題材なんだが、奥田さんの筆力によって伊良部シリーズ同様、高品質・高画質のオムニバスに仕上がっている。
1つ1つの短編の高い完成度とつなぎの巧さはまさに一級品。そしてあくまでもエンタメ。すごいわー。
あんまり赤裸裸で哀れすぎると笑えてくるって始めて知った。


最初から最後までずーっと不幸な登場人物もいるんだが、救いが用意されている幸運な主人公もいる。
中でも胸がすっとしたのは裏DVD女優の小百合。
男を引っ掛けてはアパートに連れ込み、セックスシーンを録画してアダルトショップに売り込む。
「デブ女と醜男シリーズ」と題されたこの裏モノ、マニアの間で大ウケらしい。
ビデオが回ってるとなれば「私のために争わないで!」なんてクサい台詞も平気で口にできちゃうわけで、小百合のしたたかさと踊らされてる男達の負け具合が絶妙のコントラストを成している。


小百合のDVDを観たアダルトショップの店長はこう語る。

登場人物全員が負け組。さらにはこのシリーズを待ちわびているマニアも負け組。ルーザーの祭典ですよ。いやあ、世界中の人に見せたいなあ。東京の片隅に、こんなにも凄まじい負け組のドラマがあることを知らせてやりたいなあ。


うん、素晴らしい負け組ドラマだと思う。かなりデフォルメされてるとはいえ、根っこはすごくリアルだし。
…でもさー、小百合にしても熟女にしても女子高生にしても、結局カラダ売ってお金になるのって女だけなのね。
この本でも若くもなく金もない負け犬(オス)は、したたかにさえなれずに流されてくばっかりだったし。
負け犬認定されちゃった男性は、ホントに出口がないのかもしれない。…笑えないね。