重松清「カカシの夏休み」

カカシの夏休み

カカシの夏休み

重松さん、巧いなとは思うけど、正直あまり好きな作家ではない。
直木賞を受賞した短編集「ビタミンF」といい、舞台化された「流星ワゴン」といい、30代後半妻子持ち男性のひとりよがりセンチメンタル・ジャーニーばっかりだからだ。
不惑の40には少し間があり、かといって若者ノリにはついていけない。「もう若くはない」と「まだ若い」に上から下から挿まれて、曖昧模糊な日常になんとなく疲れた中年たち、そう、ちょうど村上春樹作品の「僕」を横からみてた同級生が育った感じの、ヘイヘイボンボーンな男性がちょくちょく出てくる。
あの時願った「ヒーロー」にはなれない「その他大勢」の自分。けどまだも少し脂っ気は残ってて、濡れ落ち葉になる前に、も少しあがいてみたくなる。自己肥大欲を日本風にこじらせた「僕」たちの物語とでも言おうか。


本著でも、収録された3編のうち表題作「カカシの夏休み」と「ライオン先生」がどちらもおっさんの話。「未来」は珍しく19歳女子が主人公だが毛色が違いすぎて浮いてみえる。一番わくわく読めたのは「未来」だけど、せっかくだから重松節全開の表題作について書いておこう。


小谷は公立小学校の教師。
キレる生徒に対応できず、ただ立って見ているだけの「カカシ」とあだ名されている。
中学の同級生高木の死亡事故を機に疎遠だった同級生達と再会し、ダムの底に沈んだふるさと日羽山に帰りたいと強く思うようになる。


重松さんの真骨頂は巧妙な心理描写だ。
例えば、亡くなった同級生の妻がこぼす姑の愚痴を聞く小谷の内面はこう描かれる。

片一方の言い分だけを聞いて単純に同情したり憤ったりしていた若い頃が、懐かしい。歳をとって、世の中や人間のいろいろなことがわかってくるにつれて、中立の位置から身動きがとれなくなることが増える。やはり、僕たちはカカシなのだろう。

そうそうそう、このもやもやした感じ。
「ノスタルジー禁止ですよ」と同僚と言い交わしていたって、若い頃は懐かしい。
短冊が足りなくなるほど願い事がある子供達も、恥ずかしがることなく屁理屈を口にする生徒達も、いつの間にかあっち側だ。
「まほろ駅前多田便利軒」の行天とか「ロズウェルなんか知らない」の鏑木とか、変人奇人変わり者、つまり常識の理から半歩はみ出した狂言回しがいると、このリアリティは出せない。
登場人物全員が、どっぷり日常の澱みに浸ってあがいていて、自分の限界を悟ってしまっていて。
ちょっと書きすぎかな?と思うくらい踏み込んだ心理描写が実に巧い。


ただ、「老い」とか「郷愁」とか、誰もが感じるであろうテーマで読者のシンパシーを得るってのは安定感はあるけど、あざとい。(もちろん「そうそうそう」と読者を首肯させるだけの技量があってこその話だけど)
キレて父親を殴った生徒が、同い年の小谷の息子と何日か過ごしただけであっさりと軌道修正しちゃってるあたりとか、中学の時の同級生が結局日羽山ツアーに参加しちゃうところとか、世の中うまくいかないって言ってる割に変にご都合主義だし。


ふるさとに行ったところで結局は

わかっている。
僕たちがほんとうに帰っていく先は、この街の、この暮らしだ。

ってなるわけで。
なんでそんなに「良い人」が書きたいんだろう。もっと汚くていいし、被害者面しなくていい。
妻子や周りの人間を、自己を投影する鏡にして自分の情けなさに言い訳する「良い人」ってのはあまりに傲慢だ。


やっぱりおっさんの内面事情を書かせたら田辺聖子さんの右に出る者はないなー。