東野圭吾「片思い」

片想い

片想い

女性が男性に勝てるスポーツは存在しないのだろうか?
バンクーバー五輪でカーリングを見ていてこんな話になった。
陸上や水泳、野球やサッカーに比べ、カーリングはそれほど男女差がでなそうな競技だ。
もちろん投げる正確さや戦術さは要求されるだろうが、体力にモノを言わせるスポーツではない。

でも、素人が見ていても分かる。
女子選手は男子に勝てそうにもない。
円の中心に石が滑っていかないのだもの。まっすぐ当てるだけの最後の一投が、外側の円すら逸れていくんだもの。
ルールに男女差がなく、男女混合で女子がトップをとってるスポーツってあるのか?
残念ながら私には見つからなかった。
ビリヤードにしても、これはスポーツと言っていいかは分からないが、ポーカーや麻雀、将棋なんかでも『女流』は『男流』に勝てない。
素人レベルではわからないが、一握りの人だけが到達するトップ中のトップの世界に女性がいることは極めて少ない。
肉体の問題ではないのだろうか?かといって社会が決めたジェンダー的な問題でもないだろう。
じゃあ、男女の違いって結局なんなんだろう?


この小説はこういった、普段はあまり考えないもやもや感を呼び覚ます作品だった。
話自体は正直どうでもいいのだけれど、ジェンダーの問題を考える上で必要ないくつかのカテゴリを提示してくれたという意味で評価したい。


哲朗はスポーツ専門のフリーライター。学生時代アメフトのクォーター・バックをやっており、妻の理沙子は元マネージャーで現在はカメラマンをしている。
ある日の同窓会。元マネージャーの美月が突然現れ、自分は実は男で、男として生きることに決めたのだと言う。
しかも友人をストーカーしていた男を殺害してしまったと告白する。


とまぁ、FtM(を目指す自称性同一性障害の女性)が主要人物の一人で、どうやって殺害をごまかすか主人公が四苦八苦してるうちに謎が深まる展開ですな。
半陰陽の陸上選手にトランスセクシャル、トランスジェンダーの人々。手術はせず男として生きている劇団経営者、MtFで戸籍も女性と入れ替えてしまった人など、X・Yにこだわる登場人物はまぁ色々でてくる。
自分のセックスに疑問を抱かないレズビアンやゲイ、バイセクシャルは何故かでてこないのだけどw


美月が言うように女の肉体をもっているから自分の人生がダメで、男の身体があればすべてがうまくいくというのは短絡的だと思う。かといって、女か男かで扱いが変わるような社会を変えれば良いじゃないか!と息巻く主人公の妻に賛成する気にもなれない。


社会が悪い!
それは間違いなく正論なんだけれど(構成員のほとんどが現状維持を望むような社会は死に体である)、個人個人の生きづらさを社会なんて漠然としたものに還元してしまうと結局別の差別を生み出すことになる。
男・女のどちらかになって、社会や文化や歴史が決めたレールに沿って男っぽく、女っぽく生きるって、「自分らしく」生きるより100万倍楽だ。
誰かが決めてくれた「それらしい」性的役割を果たせるのであれば、アイデンティティ・マネジメントに悩む機会は少ないだろうし、実際その言説を再生産しているつもりでも、時代が変われば「らしさ」なんて変わっていく。
父権制度に組み込まれやがって!と学者が息巻いたところで、一人一人の生きる経験はもっと多様で複雑だ。
今後20年の教育は、「自分らしく生きる」のではなく、「人を傷つけない」やり方を教えるべきだと思う。


マイノリティとして生きるのは辛い。
でもマイノリティとしての生き方が、マジョリティに入ってしまってそこであっぷあっぷしている人の生き方より辛いとはいいきれない。人はそれぞれがそれぞれの辛さを抱えている。
だって、ジャズだってロックだってパンクだって女性だってゲイだって北米に置けるアジア人だって、peripheral (周縁)は往々にしてedgyでcoolなものと見なされて、最終的にはmainstreamに吸収されてきたじゃないか。
私は社会を変えるために生きていたいけれど、自分のアイデンティティを守るために与えられた「男らしさ」「女らしさ」を生きている人を軽蔑したくはない。
男でも女でもなく自分らしくなんてそんな難問を突きつけるから「自分探し」に逃げちゃう若者(笑)が増えたんだろ。


色々考えさせられたのでとても良かったのですが、やっぱり東野さんの本はイマイチだなぁ…。
後味の悪い小説を書かせたら桐野夏生と張ると思うし、ミステリにしてもガリレオとか嫌いじゃないんだけどなぁ…。(手紙や放課後はダメでした)
いつも思うけど、東野作品をつまらなくしているのは会話の嘘くささと題名のどーでも良さだ。

俺はこの手を離さない。仮に逃げたとしても追いかける。スクランブル攻撃の足は健在だぜ。

…こんなこと言う元クォーター・バックとか絶対お近づきになりたくない。

桐野夏生「メタボラ」

メタボラ

メタボラ

事実は小説よりも奇なり。
だけど事実を小説にしたら遥かに読みやすくなる。


桐野夏生さんの作品は実際の事件や世相からインスピレーションを得て書かれることが多いようだ。
東電OL殺人事件を主題にした「グロテスク」や、新潟少女監禁事件に着想を得た「残虐記」、「東京島」も実際にあったアナタハン島での事件が元だった。
読者が知っている事件にヒントを得ているのだから当然といえば当然だが、リアリティに関しては問題ない。もちろんある程度のデフォルメはあるだろうが、登場人物全員がちゃんと人間臭い。地に足をつけて歩いてる。
ただし、どの作品を読んでも物語としての力が極端に弱い。着地点もいつもどこか消化不良だ。
筆力がある作家さんがアウトラインもあらすじもなく、妄想したことを適当に徒然草的に書いて無理矢理本にするとこうなる感じだろうか。


「メタボラ」も多分に漏れずそんな感じ。
記憶をなくし沖縄の森をさまよっていた僕は、宮古島出身の「ジェイク」と出会い「ギンジ」として新たな生活を始める。
バックパッカー宿で様々な人と出会い人生を上書きしていくギンジ。実は金持ちのどら息子だがホストクラブでおもしろおかしく稼ぐジェイク。しかしギンジは記憶を徐々に取り戻し、ネット心中の生き残りという自分の過去と対決することになる。


…ほら、つまんないあらすじ。
ネット心中にワーキングプア、ホスト、デリヘル、同性愛。家庭崩壊に沖縄基地問題まで、それはもう広〜く浅〜くぎっちぎちに網羅しているのだが、風呂敷を広げすぎてたためなくなった感が否めない。
新聞の一面読んでるんじゃないんだから、日本で起こってるいろんな出来事を総括されたところで引くだけだ。


唯一読み応えがあるのは後半の、記憶を取り戻したギンジの回想部分。
父親の暴力から家庭が崩壊しタコ部屋で働く人生に嫌気がさしてネット心中に参加するのだが、そこまでの不条理な追いつめられ方や閉塞感、何をやってもうまくいかないねっとりどろりと絡み付く不幸感なんてのはまさに桐野ワールド。
加速する不幸スパイラルの気持ち悪よさはOUTやグロテスクに通じる桐野作品の最大の魅力だ。


でもそうすると舞台を沖縄にする必要が全くないんだよね…。
基地問題とか放浪する若者とか、そーゆうの入れてみたかっただけ?
「ずみずみ」とか「あばっ」とか宮古弁を使いたかった、にしては沖縄という世界の描き方はひどく浅いし。
あれもこれもと欲張らずに、いくつかに分けたら良かったんじゃないかな。

重松清「カカシの夏休み」

カカシの夏休み

カカシの夏休み

重松さん、巧いなとは思うけど、正直あまり好きな作家ではない。
直木賞を受賞した短編集「ビタミンF」といい、舞台化された「流星ワゴン」といい、30代後半妻子持ち男性のひとりよがりセンチメンタル・ジャーニーばっかりだからだ。
不惑の40には少し間があり、かといって若者ノリにはついていけない。「もう若くはない」と「まだ若い」に上から下から挿まれて、曖昧模糊な日常になんとなく疲れた中年たち、そう、ちょうど村上春樹作品の「僕」を横からみてた同級生が育った感じの、ヘイヘイボンボーンな男性がちょくちょく出てくる。
あの時願った「ヒーロー」にはなれない「その他大勢」の自分。けどまだも少し脂っ気は残ってて、濡れ落ち葉になる前に、も少しあがいてみたくなる。自己肥大欲を日本風にこじらせた「僕」たちの物語とでも言おうか。


本著でも、収録された3編のうち表題作「カカシの夏休み」と「ライオン先生」がどちらもおっさんの話。「未来」は珍しく19歳女子が主人公だが毛色が違いすぎて浮いてみえる。一番わくわく読めたのは「未来」だけど、せっかくだから重松節全開の表題作について書いておこう。


小谷は公立小学校の教師。
キレる生徒に対応できず、ただ立って見ているだけの「カカシ」とあだ名されている。
中学の同級生高木の死亡事故を機に疎遠だった同級生達と再会し、ダムの底に沈んだふるさと日羽山に帰りたいと強く思うようになる。


重松さんの真骨頂は巧妙な心理描写だ。
例えば、亡くなった同級生の妻がこぼす姑の愚痴を聞く小谷の内面はこう描かれる。

片一方の言い分だけを聞いて単純に同情したり憤ったりしていた若い頃が、懐かしい。歳をとって、世の中や人間のいろいろなことがわかってくるにつれて、中立の位置から身動きがとれなくなることが増える。やはり、僕たちはカカシなのだろう。

そうそうそう、このもやもやした感じ。
「ノスタルジー禁止ですよ」と同僚と言い交わしていたって、若い頃は懐かしい。
短冊が足りなくなるほど願い事がある子供達も、恥ずかしがることなく屁理屈を口にする生徒達も、いつの間にかあっち側だ。
「まほろ駅前多田便利軒」の行天とか「ロズウェルなんか知らない」の鏑木とか、変人奇人変わり者、つまり常識の理から半歩はみ出した狂言回しがいると、このリアリティは出せない。
登場人物全員が、どっぷり日常の澱みに浸ってあがいていて、自分の限界を悟ってしまっていて。
ちょっと書きすぎかな?と思うくらい踏み込んだ心理描写が実に巧い。


ただ、「老い」とか「郷愁」とか、誰もが感じるであろうテーマで読者のシンパシーを得るってのは安定感はあるけど、あざとい。(もちろん「そうそうそう」と読者を首肯させるだけの技量があってこその話だけど)
キレて父親を殴った生徒が、同い年の小谷の息子と何日か過ごしただけであっさりと軌道修正しちゃってるあたりとか、中学の時の同級生が結局日羽山ツアーに参加しちゃうところとか、世の中うまくいかないって言ってる割に変にご都合主義だし。


ふるさとに行ったところで結局は

わかっている。
僕たちがほんとうに帰っていく先は、この街の、この暮らしだ。

ってなるわけで。
なんでそんなに「良い人」が書きたいんだろう。もっと汚くていいし、被害者面しなくていい。
妻子や周りの人間を、自己を投影する鏡にして自分の情けなさに言い訳する「良い人」ってのはあまりに傲慢だ。


やっぱりおっさんの内面事情を書かせたら田辺聖子さんの右に出る者はないなー。

森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女

諸君、異論があるか。あればことごとく却下だ。

どうしよう、圧倒的に面白い小説をみつけてしまった。
舞台は京都、後輩である黒髪の乙女に恋する大学生の「私」が主人公。
天真爛漫、清楚にして勇猛果敢。わくわくすれば二足歩行ロボットのステップを踏み、腐れ外道には「おともだちパンチ」をふるまう。そんな彼女に魂をわしづかみにされて以来、「私」は「なるべく彼女の目にとまる作戦」略して「ナカメ作戦」を決行中。西に東に七転八倒を続けている。

彼女が後輩として入部してきて以来、すすんで彼女の後塵を拝し、その後ろ姿を見つめに見つめて数ヶ月、もはや私は彼女の後ろ姿に関する世界的権威と言われる男だ。


春は桜の先斗町。
酒場を渡り歩き偽電気ブランを鯨飲する乙女を追いかけゆけば、空から落ちてきた緋鯉に頭を打たれて気絶。


炎天下の下鴨古本市では、乙女の思い出の絵本を奪取すべく怪老人の催す我慢大会に飛び入り参加し、「下鴨神社を中心とした半径二キロメートルに存在する『辛さ』という概念を、一切合切拾い集めて煮込んだのではないかと思われるほど」辛い火鍋を囲んで死闘を繰り広げる。


学園祭では緋鯉のぬいぐるみを背負って転がるだるまを追いかける乙女の後をよろぼい追いかけ、学園中を右往左往。虚仮の一念岩をも砕くというべきか、念願かなってゲリラ演劇「偏屈王」で乙女とラブシーンを演じる。


季節はめぐり、険しい恋路もなんのその、ストーカーばりの「奇遇な出会い」を積み重ねるも、なにせ乙女はテラ天然。
恋心に気付くどころか、本当に奇遇な出会いだと思っているようで。
迂回に迂回を重ね「永久外堀埋め立て機関」と化した不器用なへたれ大学生、四畳半の勇者の苦悩に頭をかきむしる姿のなんと愛おしきことよ。


森見節の面白さを伝えるには圧倒的に筆力が足りないんだが…洗練された妄想世界とでも言おうか。
妄想と現実が入り乱れ、妖怪もどきの登場人物が跳梁跋扈する。
あぁ、めくるめく京都はやはり魔都なのか。(つーか京大、楽しそうすぎ)
てんこもりになった仰々しく古めかしい言葉の間に、「ちっちゃな頃だけ悪ガキでした」とか「恐ろしい子!」とか、80年代前半生まれの心をわしづかみにするフレーズが散りばめられており、もうなんていうか…大好きだ。もっと読みたい。もっとないのか。


しかし森見さん、どうやら多忙がたたって休筆中とのこと。
次作を待つ我らとしては、乙女の祈りを借用するほかありません。
森見様、どうぞ次を書いて下さいませ。なむなむ!

村上龍「69」

69 sixty nine (文春文庫)

69 sixty nine (文春文庫)

1969年。東大が入試を中止し、髪を伸ばしたヒッピーが愛と平和を訴え、ベトナムでは泥沼の戦争が続いていたころ。東大安田講堂陥落を機に全共闘が力を失い、学生運動が収束へと向かうことになるそんな年、高校生だった男の子たちのお話。

長崎県屈指の進学校・佐世保北高校で、3年になった矢崎ケンは相棒アダマたちと学校をバリケード封鎖する。夜の学校に忍び込み、ペンキで「造反有理」だの「同志よ、武器をとれ」だのスローガンを書きなぐった。屋上からは「想像力が権力を奪う」と大書した垂れ幕を掲げ、極めつきは校長の机にウンコを垂れる。あっさりとバレて警察沙汰になり、ケンとアダマは自宅謹慎をくらうのだが、謹慎がとけるやいなやロックと映画のフェスィバル、名付けて「朝立ち祭り」実行に向けて動き出すのだった。


口から生まれてきたようなケンのこと、立て板に水のごとくバリ封の重要性、フェスティバルの意義を語っては純朴な同級生たちを丸め込んでいくのだが、結局何でバリ封をやりたかったといえば、革命でも闘争でも体制打破でもなくて…「女にモテたい」から。


「バリ封やりてぇ(モテるから)」「じゃあやろうぜ!(モテるだろ)」


シンプルかつすさまじいエネルギーと実行力だが、この動機には何故かほっとする。
69年がどんなにエネルギーに満ちあふれキラキラした時代だったとしても、高校生男子の考えることは今も昔もおんなじ。
下半身でモノを考える瞬発力と、熱さと、疾走感。
楽しいことだけやっていたいホモ・ルーデンス。
楽しむことのエネルギーがそのまま反体制へのエネルギーに転換される、そんな時代だったのだろう。


村上さんはあとがきでこう書いている。

楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。
数少ない例外の教師を除いて、彼らは本当に大切なものをわたしから奪おうとした。
彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。


ここまでなら素敵な青春小説なのだが、この小説は村上さんの高校生時代をほぼそのまま書いた作品だそうで、西日本新聞の記事に50代になった登場人物たちの回想がつづられている。
彼らは69年を回顧しつつ、「祭りの後」を生きる虚無感をにじませる。
54歳になったアダマさんは「豊かさの中で日本人は去勢されてしまった」とつぶやき、バンド仲間のフクちゃんは「『反体制』さえパッケージ化されて消費されるようになった」と憤る。


「あの時は良かった」的青春小説って嫌いじゃない。青春は振り返ることでしか語られない架空の時期だから。
でも、高度消費社会で生まれ大学闘争なんて教科書でしか読んだことのない私からすれば、彼らの懐古主義には鳥肌が立つ。
だってお前らがこの時代にしたんじゃねぇの?
ロックにヒッピー、ラブ&ピース。
アメリカから輸入してきた横文字の概念を振りかざして反体制を訴えてたあの頃のお前らが、日本を消費社会にしたんじゃねぇの?
ゲバ棒にヘルメットの「反体制」なんてパッケージ化以外の何ものでもないじゃない。
「反体制」をファッションとして消費して、学生運動以降の消費文化の下地を作ったのは、お前らじゃねぇの?


お祭り人間は大好きだ。
祭りがあることで人間は生きていける。
だけどそれに適当なイデオロギーをくっつけて、「あの時代は良かった…」って目を細めて語るのはやめにしないか。
70年代以降の日本を「祭りの後」にしちゃったのは、他でもない、学園闘争の生き残りたちだと思うよ。

鷺沢萌「ウェルカム・ホーム!」

ウェルカム・ホーム!

ウェルカム・ホーム!

鷺沢萠さんの本は「F−落第生」「さいはての二人」に続く3冊目。
この本には2つの中編が収録されているが、1作目の「渡辺毅のウェルカム・ホーム」が好きだ。


「僕の家にはお父さんがふたりいる。」
小学生の憲弘が書いた作文に、毅は衝撃を受ける。
テキトーに結婚してテキトーに浮気して、テキトーに親のレストランをつぶして路頭に迷った毅を拾ってくれたのは、妻を亡くし子供を抱えてにっちもさっちもいかなくなった親友・英弘だった。
以来7年、毅はシェフならぬシュフとして、家事に育児に奮闘をつづけてきた。
しかし、憲弘の
「お父さんはサラリーマンだが、タケパパは家にいて、ごはんを作ったりそうじをしたり洗たくをしたりしている。」
という一節は、毅の「オトコの沽券」をちくちく刺激するわけで。
英弘には「ホモだと思われるのがイヤなんです」なんて言ったけど、ホントはフツーじゃない家族で「妻役」をやっちゃってる自分に違和感があったことに気付く。


でもじゃあ「フツー」って何だろう?


家事手伝いの「タケパパ」こと毅も、7年も前に妻に先立たれてるのに再婚もせず、毅に家事と育児を任せてる英弘も、家事能力ゼロの毅の彼女・美佳子も、誰もフツーじゃないって言えばフツーじゃないけど。
「こうするのが当然」って世間からの押しつけがどうも肌にあわないだけで、自分の得意な分野をそれぞれが分担してるだけなんじゃないかな。
このお話の素敵なところは、男だから!女だから!ってジェンダー論争だのアファーマティブ・アクション問題だのに突入するほど肩肘張って抗うんじゃなくて、

そういうの、もういいじゃん。誰もフツーじゃないし、誰もフツーじゃないんだから、逆にみんながフツーなんだよ。

って毅が結論づけること。
そうそ、フェミニズムはみんなのためのものなんですよ。
自分がフツーじゃないって思ってる人ほど、他人に優しいもん。他人のユニークさを認めることが、自分の得になるって知ってるもん。


ただ、そんな素敵な家庭で育った憲弘くんは、思いやりがあって空気が読める「すっげぇいい子に育ってる」んだけど、いろいろ我慢してる気もする。
作文のエピソードにちょっと匂わされてたけど、あと5年もしたらオー!ファーザー!の由紀夫くんみたいにかなりひねくれた子になるんだろうな。
毅も美佳子もみんなまとめて一緒に住んじゃえば、もっとウェルカム・ホームになるかもね。


小川洋子さんが透明な世界を創り出す小説家だとしたら、鷺沢さんはカラフルなシーンを一コマ一コマ描いてく小説家だと思う。
起承転結のはっきりした劇的なストーリーがばんっと描かれるんじゃなくて、どっか欠けてる登場人物たちが淡々とつむぐ日常のシーンの羅列。
普段意識を向けることのない日常の一場面や小道具を、登場人物の内面に絡めてすごく巧く描くんだこの人。
例えば英弘が高熱を出していることに気付いた瞬間の毅の行動。

体温計を片手に今度は階段を駆け昇り、英弘の口に突っ込む。そうしたあとでまた階段を駆け降りて、冷凍庫からはアイスノンを、冷蔵庫からは水のペットボトルを取り出し、ふたたび二階に駆け上がって洗面所に飛び込んだ。解熱用シートは二階のほうの洗面所にあるのだ。

この一連の動作、主人公の中では完全に日常の、無意識下で行われる動作である。最後の「解熱用シートは二階のほうの洗面所にあるのだ」ってのは頭の中での確認。
もうこれだけで毅がどんな人間で、家の中で普段どう動いているかがわかっちゃう。


「F−落第生」でも主人公がファミレスでまずいミルクティを飲むシーンがあって、その水のようなミルクティの様子がもうこれ以上ないくらい簡潔に鮮やかに描写されているんだが…シーンを読者の脳髄に叩き込むなんて、なかなかできることじゃない。
この作者がもう亡くなってるって大きな喪失だと思うわ。

山口節郎「批判理論と社会システム理論:ハーバマス=ルーマン論争」

昨年末に久しぶりに社会学の論文を日本語で読んだ時の読書ノートを転載。

山口節郎(1984)「批判理論と社会システム理論:ハーバマス=ルーマン論争」
The Journal of the Japan Association for Social and Economic Systems Studies


ユルゲン・ハーバマスと、タルコット・パーソンズ系機能主義社会学者のニクラス・ルーマンが80年代初頭にガチンコ論争をしたっていう話。
ちなみに両者とも1920年代後半生まれでどちらもドイツ人。ほぼ同い年ですが、ルーマンはもう亡くなっている。つーかハーバマス長生きだ。

ルーマンの機能主義については『公式組織の機能とその派生的問題』について福井県立大学の田中教授がご自分の読書ノートにまとめてくれている。ルーマンを読む時の基礎用語がわかりやすくまとまっているので助かります。


さて、論争の要旨。
2人は何故ぶつかったのかを考える前に、山口先生の論文からまず2人の立場を整理しておこう。<ハーバマス>
Frankfurt schoolに名を連ねるcritical theoristのハーバマス。Adorno&Horkheimerを第一世代とするなら(One dimensional manのMarcuseも第一世代)、第二世代の旗手として位置づけられる。ただし、ハーバマスが第一世代フランクフルト学派と一線を画するのは、第一世代が近代理性主義、すなわちマルクスの資本主義批判に立脚した経済秩序による人間の道具化を徹底的に批判したのに対し、ハーバマスは近代理性批判を「主観=客観」のdichotomyに基づいた極端な批判として退け、「複数の主体による相互コミュニケーション」という概念を発展させてからintersubjective(相互主観的)なコミュニケーションの重要性に着目した。それまでの意識哲学をヴィトゲンシュタインの言語学を参照しつつ(したがってlinguistic turn言語学的転回とよばれる)、コミュニケーション論へと転回したわけだ。
労働=生産のパラダイムから、相互コミュニケーションのパラダイムへ。
ハーバマスがコミュニケーション学で重要とされるのは、これ故である。

さらにハーバマスは、経済プロセスへの国家介入が進むに連れて、生活世界へも国家が介入してくる危険性をあげ、国民すべてがconsumer(消費者)として主体性や自律性(agency)を剥奪され、批判精神を喪失した人間が生まれることを危惧している。

山口先生の論文ではこの点についてハーバマスは「道具的合理性」と「コミュニケーション的合理性」の区別を持ち出すことによって説明をしているとする。(これまでこういう風にハーバマスを読んだことなかった…不勉強の至りw)

  • 道具的合理性:科学的合理性であり、objectを機能性、効率性という観点で処理していく、システムの構築原理。
  • コミュニケーション的合理性: 社会的合理性であり、共同生活下において合意に基づく規範や価値観を構築していく、生活世界の構築原理。

現代社会は道具的合理性が支配する世の中であり、ハーバマスは従ってコミュニケーション的合理性の復権こそがbreakthroughにつながると論じた。ただし、それはpublic sphere論でみられたように、自由な市民によるrational debate(理性的議論)が肝要であり、公共圏への参加資格が全ての人間にあるわけではないと暗示する一種のエリート思想と、メディアの広告事業化、政治のエンターティメント化がすすむ中で、どう公共圏の批判機能を回復するかといった問題については解決法が提示されていない。


*そこで一時期インターネットは公共圏なの?って議論が盛んになった訳ですが…何をもって公共となすかが曖昧な現段階で、インターネット全体を一律な対抗文化と見なすのも、いくつかの些少なケーススタディを取り上げて民主主義は死んでいない!って言うのも違うだろうし、かといって近年のエジプトやシリアでの政治革命がインターネットを媒介にして行われたことを考えると、public sphereであるとも言えるだろうし。localpublicがhyperpublicと直接つながっているというのがインターネットの特徴の一つだけど、comfort of homeでクリック1つでアクセスできる便宜性とその身体性の特殊な現れ方を考えると、rational debateが実際にどこまで行われうるのかは疑問。<ルーマン>
一方のルーマンはパーソンズの機能主義(structural funcitonalismだから...構造機能主義が直訳か?)をさらに展開して機能主義的システム理論を提唱した。パーソンズの機能主義が有名な入れ子構造なのに対して、ルーマンのシステム理論はシステム間の階層を排除し、相互補完的な見方を提唱。世界は非常に複雑なものである、とした上で、複雑な世界をシンプルにするために「意味」が存在するとした。ただし、「意味」はシステムによって作られる秩序形態であり、個人が体験しうる生活世界での体験を矮小化しないようにも作用する。個人は主体的選択によって行為を決定するが、それが失敗した場合、その行為と等価にあたる別の選択肢を可能性として保持することで、自分の殻にとじこもり意味を見失うことを防ぐからだ。
こういった「意味」を価値判断基準にして選択肢を模索するやり方を、ルーマンは「等価機能主義」と呼ぶ。ルーマンはシステムを行為者の外にあって独立した統一体とみる。(この辺デュルケムっぽい…)


それでは2人がぶつかったのは何故でしょうか。山口先生は3つの争点をあげている。
1. 意味
ルーマンにとって「意味」とはシステムの問題であり、複雑な世界を生き延びるための戦略的選択肢である。これに対してハーバマスは意味をintersubjective communicationの言語規則に帰属させ、主体間のコミュニケーション過程があって初めて成立するとする。すなわち意味に媒介されるコミュニケーションとは共有されるメタシステム、つまり言語システムを介してのみ成立すると論ずる。
ルーマンにしてみれば、ハーバマスの立場は意味が言語によってのみ構成されると言っているわけで、それはあまりに短絡的。非言語コミュニケーションによって成立する意味構成はハーバマスの考えでは説明できないとする。意味はもっと深いところに根ざしているというわけですな。

2. 議論
ハーバマスにとって理性的議論(より正確には対話)は現状打破にとって必要不可欠な要素である。自明視されている社会的規範や観念を一度かっこに入れて、何者からも支配を受けない状況で理性的議論をたたかわせることこそが、主体性の復権につながると。要するにメタコミュニケーションの一形態である。
それに対してルーマンは、ハーバマスのintersubjectivityは言語システムの中に存在する狭い定義であり、言語システムが包括し得ない愛や闘争といった現象を網羅できない。さらにハーバマスの規定する理想的議論は、その受け手が社会システムである以上、如何に理想的な空間で行われたとしても社会的現実に理想的な形で還元されることはありえない。つまりはcoffee houseの枠を出ないわけだ。

3. 理論と実践
ルーマンにとって理論はシステムの一つであり、世界の複雑性を引き受けて、その解決法を選択肢として提示する。これについてハーバマスは、ルーマンのシステム論は理論を金科玉条のように取り扱うが故に実践を非合理の領域に追いやってしまい、コミュニケーション的合理性を正当に評価しないとする。イデオロギーの再生産だ!というわけ。
しかしルーマンにしてみれば、ハーバマスは実践の妥当性を誰がどう評価するのかという問題に触れていない。理性的議論による合意を社会秩序の根底に据えようとするハーバマスの考え方は、世界を白か黒かに分けて偶然性を無視する時代遅れの西洋哲学に囚われているとする。

結論として、山口先生は2人の対立が「主体概念を巡る考えの違い」から来ているとし、現今の思想傾向から見ればルーマンに分があるんじゃないかなーと言っている。


*しかしルーマンと比べるとハーバマスがすごい楽観主義者に見える不思議…。
プラトン的哲人王を目指しちゃうハーバマスに比べて、ルーマン的社会を追究すると世界の複雑性の中であっぷあっぷしながら無力感にとらわれて一歩も進めない近代人像がデフォになっちゃいそう。

でも理性的人間を批判的公共圏の担い手として定義するが故にエリート主義に陥りかねないハーバマスと、理性自体もシステムによって意味付けられる偶然性に依拠したものだとするルーマンと、どっちがagencyを正しく捉えてるかっていったら、後者だろう。反システム的対話・議論としてハーバマスがあげているのは、彼がどう言おうとやっぱりフィクションだし。

それじゃどうするか。

公共圏の考え方自体は、「理性」の定義を覆さない限り、哲人王の箱庭以外の何者でもないんだけど、その公共の定義をもっと多様で無秩序なモザイク的なものとして捉えたらどうだろう。
ルーマンの意見を採用し、個人はドラマツルギー的に役割を演じる中で理性的な意見を選択していくとかなーり楽観的に定義した上で(だいぶゴフマン風味だけどw)Illichの脱学校教育論(Unschooling)なんかを絡めると、システムの脱構築を経た上でのシステム再構築、生活世界への機能移譲ってのが可能になる気はする。

結局のところ、こうすれば未来は明るい!って言えないとしたら、それはsociology(社会学)ではなくてsarcasmiology(皮肉学)だと思うんだ。